初代 長左衛門

初代 長左衛門(ちょうざえもん、1629年(寛永6)~1712年(正徳2))
大坂出身。本名は土師(本姓)、長二

初代 大樋長左衛門

元は河内国土師に住む土師姓の出自といわれている。
1656年に京都に出て、楽家一入に楽焼の製法を学び、二条川原町付近に居を構えていた。
その為、当時にその近辺で楽の脇窯を焼いた押小路焼にも、なんらかの関係が有ったのではと
推測されている。
66年に加賀藩の茶頭を務めていた裏千家4代の仙叟宗室の推挙で、加賀前田家に仕える。
藩主の前田綱紀より、金沢東郊の大樋村に住居を賜ったので、そのまま大樋を姓とした。

初代の作品の現存は少ないが、現存する茶碗作品を見てみると雅味に欠け、
平凡な作域の物が残るが、それが元々の作陶技術が巧みでなかったのか、
仙叟の好みによる物なのかの判別には議論が分かれている。
彫塑的な置物の作風をみると有る程度の巧妙な技量を見る事が出来るため
仙叟の好みによる部分が大きいと推測される。
また、大樋焼は初代の頃より飴釉を基本に焼かせているが、これは前田家が京の楽家と千家との間柄を
考慮して黒楽、赤楽の物は極力控え、異なる作風を求めた為とされる
(数は少ないが黒楽茶碗を残している)。
また、茶碗に在印の物も稀にあるといわれるがほとんどが無印。

陶印は「大樋長」 など

十二代 弘入

十二代 弘入(こうにゅう、1857年(安政4)~1932年(昭和7))

11代慶入の長男。本名は、小三郎、惣次郎(幼名)のち吉左衛門、喜長

12代楽吉左衛門

1871年家督を継ぎ吉左衛門を襲名。
黒楽茶碗、赤楽茶碗共に、色彩表現に優れ、釉薬を二重にかけることにより色の変化を演出。
また、箆(へら)使いにおいては、9代了入を基礎としながらも独自に研究。
独特の穏やかな胴の丸み、男性的で豪放的な作品を残す。

印には糸偏が8を模る「8楽」が主流、そのほか徳川頼倫候筆の「楽」、
碌々斎宗左筆の草書「楽」、「十二代喜長」の角印を使用。
西本願寺用に瓢箪型の中に「澆花」とされた印もある。
印名は「樂」(「楽」)「十二代喜長」

九代 了入

九代 了入(りょにゅう、1756年(宝暦6)~1834年(天保5))
7代長入の次男、8代得入の弟。本名は惣次郎(幼名)のち吉左衛門、喜全

9代楽吉左衛門

兄が25歳の頃、隠居したため14歳の頃に家督を襲名。
了々斎宗左より了の一字を贈られ了入と号した。
1819年には了入の次男(のちの旦入)と共に紀州徳川家御庭焼に従事。

作風は手捏ね技法における箆(へら)削りの技術に優れ、以降の楽歴代吉左衛門に
多大な影響を与え楽家中興の祖とされる。

陶印は樂の「白」が「自」となり、3本線が右下がりで彫られているのが特徴。
また、隠居後は草書体樂印を使用した。

六代 左入

六代 左入(さにゅう、1685年(貞亨2)~1739年(元文4))

大和屋嘉兵衛の次男。本名は惣吉(幼名)のち吉左衛門、嘉顕

5代宗入の婿養子として楽家を継承、襲名した。
長次郎・ノンコウなど歴代先人の写しのほか本阿弥光悦の茶陶を研究し
独自の釉薬「左入釉」完成の糧とした。
また、如心斎宗左に茶を学び、茶人や俳人としても名を残す。

陶印は内枠いっぱいまで樂印が拡張されているのが特徴。

三代 道入

三代 道入(どうにゅう、1599年(慶長4)~1656年(明暦2))

3代 楽吉左衛門

楽歴代最高峰の作り手とされ、これまでの釉薬のほかに幕釉、砂釉、朱釉などを創作。
これまでの重厚なイメージよりも柔らかな作風で個性を発揮する。
また多くの名物茶碗を残し、ノンコウ写しなどとして現代においても
その作風を研究・模倣する作家は多い。

陶印は、大小二つの楽(樂)印を使用し楽の字の「白」を「自」としているのが特徴。

十四代 覚入

十四代 覚入(かくにゅう、1918年(大正7)~1980年(昭和55))
京都府出身。東京美術学校(彫刻科)卒

14代楽吉左衛門

1945年14代楽吉左衛門を襲名。
東京美術学校で近代的な造形を学び、また独自に緑釉、赤砂釉、幕釉、白釉などを研究し
伝統を継承しながらも、歴代吉左衛門にはなかった色彩やデザインを強調するような作品を展開。
没後十六代覚々斎宗左より覚入と号される。
京都伝統工芸家協会役員。

印名は「楽」(自筆草書体)(また1959年に高松宮妃殿より同妃殿下自筆の「楽」印を拝領)
「十四代喜慶」など

八代 得入

八代 得入(とくにゅう、1745年(延享2)~1774年(安永3))
7代長入の長男、本名は惣吉(幼名)のち吉左衛門のち佐兵

8代楽吉左衛門

18歳時に家督を襲名するが、25歳(1770年)のころ父長入が没すると
家督を弟に譲り、自らは隠居となり佐兵衛と名乗る。
吉左衛門としての制作期間が短くさらに早世だったため遺作はほとんど残っていないが
現存作品から作風を見ると大半が赤楽の作品で、独自の作風を築く前に没しているせいか
父・長入に似た作品を残している。
号の得入は没後25回忌にて贈られたものである。

陶印は樂の「白」字真中が「ヽ」となるのが特徴。

十三代 惺入

(せいにゅう、1887年(明治20)~1944年(昭和19))
12代弘入の長男。本名は、惣吉(幼名)のち吉左衛門、喜英

13代楽吉左衛門

1919年家督を継承、吉左衛門を襲名。
作風は、独自に各地の鉱石を研究し、釉薬に生かせないかと研究し、鉱石釉黒茶碗などを制作。
楽茶碗のほかにも織部、志野、備前など、各地の陶磁も積極的に制作している。
また箆(へら)技術においても、個性的な表現が多く、全体的に見ると大胆な力強い作品を
多く残している。
没後、惺斎宗左より号、惺入を賜る。
印には「楽」上部の白の右側の糸偏が彡となっている草書体の「楽」印が特徴的で
その他に「十三代喜英」の角印がある。

十代 旦入

十代 旦入(たんにゅう、1795年(寛政7)~1854年(嘉永7))
本名は市三郎、惣次郎(幼名)のち吉左衛

10代楽吉左衛門

17歳の頃家督を継ぎ襲名。
千家十職として了々斎宗左や吸江斎宗左によく仕え、吸江斎宗左(宗旦)より旦入の号を賜る。
1819年の徳川家御庭焼の従事のほか、1828年に二度目の紀州行きを命じられ
吸江斎宗左、十代永楽了全、十一代永楽保全と共に南紀偕楽園窯に従事し、
治宝候より自筆隷書体の楽印を拝領し、おもな使用印とした。

作風は父・了入をよく継承し、ヘラの技術に優れ茶碗の角度によっての違った魅力を演出、
作品としては小ぶりのものを多く残している。

陶印は、徳川家斎順候の湊御殿御庭焼清寧軒窯に従事した頃の印「清寧印」、
他に行書「樂」(「楽」)印(楽の下部が正しく木となっている「木楽印」などを使用、
「木樂印」下部の木の字が撥ねている)

七代 長入

七代 長入(ちょうにゅう、1714年(正徳4)~1770年(明和7))
6代左入の長男。本名は惣吉(幼名)のち吉左衛門、栄清
7代 楽吉左衛門

15歳で家督を継承し吉左衛門を襲名。
茶碗制作に当たり、独自の交趾釉を創造。また金彩による絵付けが特徴となり、
茶碗全体の印象としては、やわらかく丸みを帯びた作風のものを多く残す。
茶碗以外にも代表作として、「日蓮上人陶像」に見れるように細工物や立体表現にも優れたとされる。

陶印は樂印が枠内で全体的に小さい。また彫りが深い。