伊藤東涯

伊藤東涯(いとう とうがい、1670年(寛文10)~1736年(元文元年))
京都出身。師は伊藤仁斎

江戸中期の儒学者として有名な伊藤仁斎の長男。
父が創始した古義学を受け継ぎ、父の没後、古義学派の普及にに務め「孟子古義」などの著書を刊行。
父の学説では朱子学や仏教的表現が残存していたが、東涯はこれらを完全に排除し
道徳実践の基準として、客観的な社会秩序を重視した新たな学説を唱えた。

印名は「元蔵」 「元蔵氏」 「東涯精舎」 「原蔵」 「原蔵氏」 「慥二斎」 「家世詩書」 「時還読我書」
「玩易清課」 「伊藤長胤」 「四海男皆兄弟」 「盈二一水」 など

新井白蛾

新井白蛾(あらい はくが、1725年(享保10)~1792(寛政4))
加賀出身。本名は祐登。通称は織部。

江戸中期から後期にかけて活躍した儒学者、易学者で易学中興の祖。
始めは、江戸に出て菅野兼山に儒学や漢詩を学んだ後、22歳にして独立して神田で講じていたが
独自に易学を研究して、大家となる。
晩年は加賀藩より藩候として招かれ藩校等で儒学を教えた。
書のほか、趣味として和歌をよく残したとされている。

印名は「源祐登印」 「祐登」 「白蛾」 「字曰謙吉」 など

秋山玉山

秋山玉山(あきやま ぎょくざん、1702年(元禄15)~1763年(宝暦13))
肥後国(熊本県)出身、本名は(旧姓は中山)、定政、儀。

19歳の頃肥後藩細川家の儒官となって、その後藩命により江戸の昌平坂学問所にて
林鳳岡らに漢詩、文学などを学ぶ。
帰郷後は学校の必要を唱えて運動を起こし、藩主細川重賢のとき藩校「時習館」を建設し
教授として藩士の教育に尽力。

落款名は「弌字子羽」「原儀私印」「源儀之印」など

小笠原長生

小笠原長生(おがさわら ながなり、1867年(慶応3)~1958年(昭和33))
佐賀県出身

佐賀唐津藩主小笠原壱岐守長行の子として生まれる。
1880年に学習院に学び、更に84年より海軍兵学校、次いで海軍大学校に入学して入軍。
89年に海軍少尉となる。
1894年~95年には日清戦争に従軍、黄海海戦等に参加したが、文才に長け
戦後に戦記をまとめた「海戦日録」によって、その才が高く評価される。
以降海軍戦記などの編纂に携わるようになる。
また、当時の司令長官東郷平八郎によって、学習院御用掛に推薦、学習院院長でもあった
乃木希典からも強い信頼を得て、14年の東宮御所設立の際には皇太子(昭和天皇)の教育係も務めた。

印名は「臣長生印」「鳳翼勝友」など

一休宗純

(いっきゅう そうじゅん、1394年(応永元)~1481年(文明3))
本名は千菊丸のち周建のち宗純(順)。
号は一休、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)など
第47世大徳寺住持。京都出身

後小松天皇の落胤とされ、幼少期に安国寺に預けられ
像外集鑑の下で修行を重ねる。
このときより、幼名千菊丸を捨てて、師より周建と名付けられる。
また早くから漢詩など文学に秀でていたとされる。
更に、謙翁宗為ついで大徳寺の高僧華叟宗曇について修行し、
謙翁から宗純の諱を、また華叟から一休の号を授けられる。
1474年には、後土御門天皇の命により、大徳寺大47世住持に就任。
応仁の乱で被害を受けた寺の再建に尽力したとされる。

晩年は京都田辺(現京田辺市)の酬恩庵(通称:一休寺)に隠居して、
詩、狂歌、書などを趣味として暮らした。

「墨蹟」が重文指定。

印名は「休」 「弌休」 など

秋月種樹

秋月種樹(あきづき たねあつ、1833年(天保4)~1904年(明治37))
日向国(宮崎県)出身。

日向国高鍋藩藩主の秋月種任の三男として生まれる。
安井息軒らに儒学、漢学を学び、幕末には昌平学(昌平坂学問所=幕府の学問所)にて学問奉行となり
将軍侍読、若年寄なども務めたが、維新後は明治政府に出仕して
公議所議長・左院少議官・元老院議官・貴族院議員などを歴任した。

落款名は「焼華種樹」「壱桂吱古香」「古香」「詩画一律」など

大塩平八郎

大塩平八郎(おおしお へいはちろう、1793年(寛政5)~1837年(天保8))
大坂出身。本名は後素

家塾洗心洞で門下を育成後、天保の飢饉により民衆救済活動(大塩の乱)を起こすが、
失敗し、40日間の逃亡、隠匿生活ののち自害する。
享年46歳。

尚、「洗心洞」は彼が自宅で開いた私塾名である。

印名は「源後素」 「大塩後素」 「大塩之印」 「浪華法曹」(「浪花法曹」) 「洗心洞主人」
「聖朝吏隠」 「慎独」 「洗心洞図書記」 など

石川啄木

石川 啄木(いしかわたくぼく、明治19年(1886)2月20日~明治45年(1912)4月13日 27才没)
岩手県南岩手郡、曹洞宗日照山常光寺の住職であった石川一禎の長子として生まれる。
本名は、石川 一(はじめ)。

中学時代に、与謝野晶子らの短歌に傾倒し、文学への志を抱く。
短歌の会である“白羊会”を結成する。

1903年、結核の発病もあり、故郷に帰る。
同年、『岩手日報』に評論を連載。『明星』に再び短歌を発表。
執筆に啄木のペンネームを使い始め、啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目される。

『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。
三行書の歌集『一握の砂』を出版、歌壇内外から注目される。

代表作に、歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』。

岩手県盛岡市に石川啄木記念館

安積艮斎

安積艮斎(あさか ごんさい、1790年(寛政2)~1860年(万延元))
岩代国安積群郡山(福島県郡山市)出身。

幼少時より、学問に興味を持ち、藩校などで詩文など勤勉に励んでいた。
16歳の頃上京して、佐藤一斎ついで幕府御用掛けの儒学者林述斎の門下となる。
その後、江戸神田の駿河台にて、私塾「見山楼」を起こす。
その後の著書「艮斎文略」にて一躍名を馳せ、43歳の頃には、郷里の二本松藩の儒者として
任命を受け帰国。さらに晩年には、幕府からも儒者としての任命を受けて、
昌平学(幕府の学問所)の教授なども勤めた。
また、この間、渡辺崋山ら蘭学者とも親交を厚くしており、西洋学や翻訳にも長けた学者として有名。
ペリー来航時など、初期の外交にも活躍を示した。

門下は、私塾と昌平学教授時代をあわせ2000人以上とされており、
中村敬宇、吉田松陰、高杉晋作らをはじめ多くの幕末著名人が艮斎の学識をたより入門している。

芥川龍之介

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、明治25年(1892)3月1日~昭和2年(1927)7月24日 36才没)
東京市京橋区入船町に生まれる。号は澄江堂主人、俳号は我鬼を用いた。

叔父の芥川道章の養子となり芥川姓を名乗る。
旧家の士族芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家である。
家中が芸術・演芸を愛好し江戸の文人的趣味が残っていた。

第一高等学校第一部乙類に入学。
中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、龍之介はその選に入る。
1913年、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。
当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。

1914年、東京帝国大学文学部英文学科在学中、菊池寛、久米正雄らとともに
同人誌『新思潮』(第三次)を刊行し、そこに処女小説「老年」を発表した。作家活動を始める。
1915年、10月、代表作の「羅生門」を「芥川龍之介」名義で『帝国文学』に発表する。
鈴木三重吉の紹介で夏目漱石門下に入る。
1916年、第4次『新思潮』を発刊。その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛される。
東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。

短編小説を書き、多くの傑作を残した。
初期は、歴史物やキリシタン物が有名である。「羅生門」「鼻」「芋粥」
中期は、芸術至上主義的な面が全面に出た。「地獄変」
晩年は、自分のこれまでの人生を見直したり、生死に関する作品が多く見られる。「河童」
初期より晩年の方を高く評価する見解も示されている。