吉田松陰

吉田 松陰/吉田 矩方(よしだ しょういん/よしだ のりかた、天保元年(1830年9月20日)~安政6年(1859年11月21日) 30才没)長門国萩松本村に萩藩士杉百合之助、瀧の次男として生まれる。
幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は虎之助。養子後の名字は吉田、大次郎と改める。通称吉田寅次郎。
諱は矩方。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。

1835年、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
1850年、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って、西洋兵学を学ぶために九州に遊学する。
江戸に出て佐久間象山の師事する。

1853年、マシュー・ペリーが浦賀に来航、西洋の先進文明に心を打たれる。
1859年、安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られ、井伊の命令により「死罪」となる。

獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残す。
その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。
また、家族宛には『永訣書』を残しており、
こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。

横井也有

横井也有(よこい やゆ、1702年(元禄15)~1783年(天明3))
愛知県出身

尾張徳川家の重臣を務める横井時衡の子として生まれる。
26歳のときに家督を継承。
御用人、大番頭、寺社奉行などを勤めるなど、幕府に仕官する。
俳諧を好み、句作に勤しんだが、53歳で隠居を許されて以降は俳諧のみならず和歌、絵画、狂歌など
幅広い芸術分野に親しみ風雅を好んだ人で俳諧では美濃地方の筆頭格と目された。

代表作に俳文集「鶉衣」、「蘿葉集」「千句集」「管見集」「野夫談」「夢の趾」などを残す。

印名は「也有」など

山田恵諦

山田恵諦(やまだ えたい、1895年(明治28)~1994年(平成6)))
兵庫県出身

1895年に兵庫県揖保郡太子町に生まれる。
10歳で出家。16歳で比叡山に入る。
1920年、天台宗西部大学卒業。 天台宗教学部長、天台宗勧学院院長、延暦寺本坊滋賀院門跡を経て、
74年、第253世天台座主に就任する。
「一隅を照らす運動」総裁。日本宗教代表者会議名誉議長、全日本仏教会会長などを歴任。
1987年比叡山開創1200年を記念して比叡山宗教サミットを主催。
カトリックのフランシス・アリンゼら、世界の七大宗教の指導者24人が比叡山に集い、
世界の平和を祈願した。行動的だったので「空飛ぶお座主」といわれた。

山縣有朋

山縣有朋(やまがた ありとも、1838年(天保9)~1922年(大正11))
山口県出身、本名は辰之助のち小輔のち狂介のち有朋

第3代、9代内閣総理大臣

萩藩の下級武士の家に生まれ、幼少期より吉田松陰の松下塾に学ぶ。
勤皇、尊王攘夷運動に参加、1863年には高杉晋作に代わり、奇兵隊の中心人物として活躍する。
戊辰戦争時には北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。

明治維新後は有朋と改名、69年に渡欧各国の軍事を視察して、帰国後は73年に陸軍卿に就任。
徴兵制の導入、軍人勅語の制定、参謀本部の設置などを推進した。
83年の内務卿就任を経て、1885年に内閣制が施行されると89年に第3代内国総理大臣に就任し、
軍事拡張などを進めたが91年に辞任、98年には再び第9代の総理大臣に就任。
治安警察法の制定などで政治、労働運動などの弾圧を推し進め、
特に自由民権運動を弾圧したことや政党政治を嫌ったことから、政治の内外にかかわらず
国民や皇室からも嫌われた政治家として知られている。
東京の道路の道幅を当時の基準値より大幅に広げるなどといった
将来的な思想を常に持っていたための政治であり万人には理解できなかったという説もある。

印名は「山縣有朋」「有朋之章」「芙蓉峰主」「不動如山」「含雪樓主」「含雪」「椿山荘」など

吉田茂

吉田 茂(よしだ しげる、明治11年(1878)9月22日~昭和42年(1967)10月20日 89才没)
自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台に生まれる。
生後まもなく旧福井藩士で横浜の貿易商 吉田健三の養子となる。
養父が若くして他界、まだ少年だった茂は莫大な遺産を相続する。
第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣。

1896年、正則尋常中学校(現在の正則高等学校)を卒業。
同年、東京物理学校(現在の東京理科大学)に入学。
1897年、学習院に移り、1901年、学習院高等学科を卒業。同年、学習院大学科に入学。
1904年、東京帝国大学に移り、1906年、政治科を卒業。
同年9月、外交官及び領事官試験に合格する。

外交官となって中国各地に赴任した後、田中義一内閣の外務次官となる。
1935年、ロンドン海軍軍縮条約締結に際しては幣原(しではら)外相を補佐、
1936年、駐英大使を務めるなど親英米派に転じ、米英との対立を引き起こした軍部と衝突、
退官後は野に下り、(元)内大臣の岳父(がくふ=妻の父。しゅうと)牧野伸顕(のぶあき=大久保利通の次男)ら宮中グループと開戦防止や近衛文麿グループの一員として東条内閣を倒閣し、戦争終結策を企てた。

1946年、第1次内閣、48~54年第2次から5次に至る内閣を組織。
1951年、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約に調印。
日本の独立を果たし、同時に戦後の国際関係における日本の路線を方向づけた。

吉田は、国内的には日本の伝統を固守する保守主義を貫いたが、
戦後の経済復興には最大の努力をはかり、対外的には対米協調路線をとり、
占領政策の遂行や日米安保体制の構築に努めた。

聡明な頭脳と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立てた。
ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。

外務大臣。衆議院議員(当選7回)。貴族院議員(勅選)。
従一位・大勲位。皇學館大学総長、二松學舍大学舎長。

梁川星巌

梁川星巌(やながわ せいげん、1782年(天明2)~1858年(安政5))
岐阜県出身、本名は卯、通称は新十郎

15歳の頃江戸に上がり、古賀精里や山本北山の門に入り漢詩を学ぶ。
その後(梁川)仁蘭と結婚し、夫婦共に20年間諸国を行脚しながら各地に歌を残す。
江戸に戻ると、神田に漢詩塾「玉池吟社」を建て多くの優秀な門下を出した。
江戸後期を代表する漢詩家として有名。

印名は「星巌畫圖」(「星巌画図」) 「老龍」 「夏軒」 「梁孟緯印」 「公圓」(「公円」)
「梁氏公圓」(「梁氏公円」) 「聊逍遥」 「鴨沂小隠」 「不了工夫架上書」 「香巌」 「老龍」

山田方谷

山田方谷(やまだ ほうこく、1805年(文化2)~1877年(明治10))

5歳の頃から新見藩儒丸川松隠に学び、朱子学を修めて幼少時より詩文に秀でる。
その後23歳~25の頃に、2度京都に遊学して寺島白鹿に師事。
帰郷後は、松山藩校有終館教授に就任。
更に3度目の京都遊学にて、陽明学を学び傾倒、
30歳の頃には江戸に遊学して昌平坂学問所の佐藤一斎に師事。
帰郷後は、藩校での指導の傍ら34歳の頃に私塾「牛麓舎」を開いて門下を育てる。
また松山藩藩軍奉行、年寄役助勤、元締などを歴任して藩政に尽力を尽くした。

印名は「土木形骸」 「山田球印」 「山球印」 「琳卿」 「窓琳卿」 など

山岡銕舟

山岡銕舟(やまおか てっしゅう、1836年(天保7)~1888年(明治21))
江戸出身、本名は高歩、通称は小野鐡太郎

初め槍術の山岡静山(高橋泥舟の兄)の門に入り武芸を学ぶ。
静山没後衛、妹の婿養子に向かえられ、山岡姓となる。
その後、徳川慶喜将軍に仕え、護衛などを任され活躍。
明治維新後は、新政府の政治家として茨城県参事などを歴任。
また明治天皇の教育係として日本の近代化に大きく貢献、影響を与えた。

書を多く残しており、勝海舟・高橋泥舟とともに「幕末三舟」と称されることは有名。

印名は「高歩之印」「山岡高印」「銕舟」「鐡舟」「鐡舟居士」「藤原高歩」「養浩」「曠野号銕舟」など

山内容堂

山内容堂(やまうち ようどう、1827年(文政10)~1872年(明治5))
土佐国(高知県)出身、本名は豊信。土佐藩15代藩主

12代藩主山内豊資の弟、山内豊著の長男として高知城内で生まれる。
元々分家筋で、藩主継承とは離れた立場であったが、13代豊熈(豊資長男)、14代(豊資次男)が
相次いで急死したために1848年に15代藩主となる。
藩主に就任すると、革新派の吉田東洋を重用し福井藩主の松平春嶽、宇和島藩主の伊達宗城、
薩摩藩主の島津斉彬と共に、幕政にも積極的に参加し、
老中阿部正弘に幕政改革を進言するなど、彼らと共に「幕末の四賢侯」と称される。
しかし阿部正弘が没すると、彦根藩井伊直弼と世継問題で対立し、安政の大獄により
隠居、謹慎処分を受ける。
幕末期には徳川慶喜を擁立したままの新政府の実現を目論んだが、大政奉還を向かえ、
明治維新後は内国事務総裁に就任(1869年に辞職)、以降は酒と詩文を好み自らを「鯨海酔候」と揶揄した。

印名は「借庵光生」など

山内一豊

山内一豊(やまうち かずとよ、1546年(天文15)~1605年(慶長10))
尾張国(愛知県出身)。土佐藩初代藩主

岩倉城家老の但馬守盛豊の次男として生まれる。
織田信長に仕え、名馬を買い揃えるなど(安土馬揃え)功績により
近江長浜城、遠江掛川城の城主になるなど活躍。
信長没後は豊臣秀吉、徳川家康と時の天下人に就き秀吉朝鮮出兵の際は、京を守るなど重役を似ない
家康時には反家康派の石田光成の情報を即座に知らせ難を逃れるなどの貢献を称えられ
土佐国(藩)を任されるようになった。