渡辺沙鴎

渡辺沙鴎(わたなべ さお、1863年(文久3)~1916(大正5))
愛知県出身、本名は周。

書を水谷魯堂、次いで恒川宕谷に学んだ後、漢学を浅田藤山・佐藤牧山、
画を神保木石と地元の書画家らに学んでいた。
1888年に上京して、日下部鳴鶴に弟子入り、中林梧竹、巌谷一六らにも指導を受け
本格的に書家を志す。
その後、六書展覧会、日本書道会などの書専門の展覧会の発足に尽力を示し、
以後は毎年出品を重ねて発展にも貢献を示した。

印名は「沙鷗」「清」「華」「東海沙鷗」「嗜子秀雪」「飛清閣主」など

若山牧水

若山 牧水(わかやま ぼくすい、明治18年(1885)8月24日~昭和3年(1928)9月17日 44才没)
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。

1904年、早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、
「早稲田の三水」と呼ばれる。
1908年、早大英文学科卒業。7月に処女歌集『海の声』出版。
1909年、中央新聞社に入社。5ヶ月後に退社。

1912年、喜志子と結婚。1913年、長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。
1920年、沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住する。

旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に歌碑がある。
自然を愛し、特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、
千本松原保存運動を起こしたり富士の歌を多く残すなど、自然主義文学としての短歌を推進した。

碌々斎

十一代 瑞翁宗左 碌々斎(ろくろくさい、1837年(天保8)~1910年(明治43))
本名は与太郎(幼名)、宗員のち宗左、宗旦

表千家11世家元 瑞翁宗左

10世祥翁宗左の長男として生まれる。
1855年に父の隠居に伴い家元襲名。
1868年の明治維新まで紀州徳川家に出仕したが、幕府崩壊に伴い終焉となり、
また幕末~明治初期は茶の湯衰退期となる。
碌々斎はそうした困難な時代背景の中で神社仏閣などでの茶事を多くこなして茶の湯復興に努め、
1886年には北野大茶の湯三百年記念茶会、87年に明治天皇に献茶、
90年に利休三百回忌を担当、伝統を守っている。

良寛

良寛(りょうかん、宝暦8年(1758年11月2日)~天保2年(1831年2月18日) 74才没)
越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた。

名主見習いだった良寛は18歳のとき出家。
玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚に師事し、諸国を廻る。
義提尼より和歌の影響を受ける。

良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。
また戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わした。

生涯寺を持たず、諸民に信頼され、教化に努めた。良寛自身、難しい説法を行わず、
自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉によって一般庶民に解り易く仏法を説き、
一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得る。

新潟県三島郡に良寛記念館がある。

頼山陽

頼山陽(らい さんよう、1780年(安永9)~1832年(天保3))
大坂出身。

大坂の江戸堀にて私塾を開いていた頼春水の子として生まれる。
1871年1歳の頃に、父が広島の藩儒に登用された為に広島竹原に移住。
1797年に江戸に遊学して、尾藤二洲に師事して儒学・詩文を学んだが青年期は素行が悪く、
1800年に広島藩を脱藩、京都などを巡遊したがすぐに藩に連れ戻されて幽閉となる。
その間、著述に没頭。
出獄後は福山藩の儒官菅茶山の廉塾の門下となりその後塾長も務める。
1811年には再び京都にて自由な学問を求めて私塾を開校。

詩文、書、絵画に優れ著書においても多数残しているが、代表的なものに「日本外史」「日本政記」
「日本楽府」、詩文集に「山陽詩鈔」「山陽遺稿」などがある。
また、文人・画家・詩人と数多く交友を持ち著名な人物では画家の田能村竹田、浦上玉堂、
江馬細香、儒者の梁川星巌、大塩平八郎らがいる。

印章は、自ら刻した。書斎は常に行届いており、骨董と書物を愛したと言われている。

印名は「頼子成」「頼襄」「迂襄」「臣襄」「山紫水明」「身留一剣答君恩」「古之人古之人」など多数ある。

吉田松陰

吉田 松陰/吉田 矩方(よしだ しょういん/よしだ のりかた、天保元年(1830年9月20日)~安政6年(1859年11月21日) 30才没)長門国萩松本村に萩藩士杉百合之助、瀧の次男として生まれる。
幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は虎之助。養子後の名字は吉田、大次郎と改める。通称吉田寅次郎。
諱は矩方。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。

1835年、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
1850年、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って、西洋兵学を学ぶために九州に遊学する。
江戸に出て佐久間象山の師事する。

1853年、マシュー・ペリーが浦賀に来航、西洋の先進文明に心を打たれる。
1859年、安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られ、井伊の命令により「死罪」となる。

獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残す。
その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。
また、家族宛には『永訣書』を残しており、
こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。

横井也有

横井也有(よこい やゆ、1702年(元禄15)~1783年(天明3))
愛知県出身

尾張徳川家の重臣を務める横井時衡の子として生まれる。
26歳のときに家督を継承。
御用人、大番頭、寺社奉行などを勤めるなど、幕府に仕官する。
俳諧を好み、句作に勤しんだが、53歳で隠居を許されて以降は俳諧のみならず和歌、絵画、狂歌など
幅広い芸術分野に親しみ風雅を好んだ人で俳諧では美濃地方の筆頭格と目された。

代表作に俳文集「鶉衣」、「蘿葉集」「千句集」「管見集」「野夫談」「夢の趾」などを残す。

印名は「也有」など

山田恵諦

山田恵諦(やまだ えたい、1895年(明治28)~1994年(平成6)))
兵庫県出身

1895年に兵庫県揖保郡太子町に生まれる。
10歳で出家。16歳で比叡山に入る。
1920年、天台宗西部大学卒業。 天台宗教学部長、天台宗勧学院院長、延暦寺本坊滋賀院門跡を経て、
74年、第253世天台座主に就任する。
「一隅を照らす運動」総裁。日本宗教代表者会議名誉議長、全日本仏教会会長などを歴任。
1987年比叡山開創1200年を記念して比叡山宗教サミットを主催。
カトリックのフランシス・アリンゼら、世界の七大宗教の指導者24人が比叡山に集い、
世界の平和を祈願した。行動的だったので「空飛ぶお座主」といわれた。

山縣有朋

山縣有朋(やまがた ありとも、1838年(天保9)~1922年(大正11))
山口県出身、本名は辰之助のち小輔のち狂介のち有朋

第3代、9代内閣総理大臣

萩藩の下級武士の家に生まれ、幼少期より吉田松陰の松下塾に学ぶ。
勤皇、尊王攘夷運動に参加、1863年には高杉晋作に代わり、奇兵隊の中心人物として活躍する。
戊辰戦争時には北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。

明治維新後は有朋と改名、69年に渡欧各国の軍事を視察して、帰国後は73年に陸軍卿に就任。
徴兵制の導入、軍人勅語の制定、参謀本部の設置などを推進した。
83年の内務卿就任を経て、1885年に内閣制が施行されると89年に第3代内国総理大臣に就任し、
軍事拡張などを進めたが91年に辞任、98年には再び第9代の総理大臣に就任。
治安警察法の制定などで政治、労働運動などの弾圧を推し進め、
特に自由民権運動を弾圧したことや政党政治を嫌ったことから、政治の内外にかかわらず
国民や皇室からも嫌われた政治家として知られている。
東京の道路の道幅を当時の基準値より大幅に広げるなどといった
将来的な思想を常に持っていたための政治であり万人には理解できなかったという説もある。

印名は「山縣有朋」「有朋之章」「芙蓉峰主」「不動如山」「含雪樓主」「含雪」「椿山荘」など

吉田茂

吉田 茂(よしだ しげる、明治11年(1878)9月22日~昭和42年(1967)10月20日 89才没)
自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台に生まれる。
生後まもなく旧福井藩士で横浜の貿易商 吉田健三の養子となる。
養父が若くして他界、まだ少年だった茂は莫大な遺産を相続する。
第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣。

1896年、正則尋常中学校(現在の正則高等学校)を卒業。
同年、東京物理学校(現在の東京理科大学)に入学。
1897年、学習院に移り、1901年、学習院高等学科を卒業。同年、学習院大学科に入学。
1904年、東京帝国大学に移り、1906年、政治科を卒業。
同年9月、外交官及び領事官試験に合格する。

外交官となって中国各地に赴任した後、田中義一内閣の外務次官となる。
1935年、ロンドン海軍軍縮条約締結に際しては幣原(しではら)外相を補佐、
1936年、駐英大使を務めるなど親英米派に転じ、米英との対立を引き起こした軍部と衝突、
退官後は野に下り、(元)内大臣の岳父(がくふ=妻の父。しゅうと)牧野伸顕(のぶあき=大久保利通の次男)ら宮中グループと開戦防止や近衛文麿グループの一員として東条内閣を倒閣し、戦争終結策を企てた。

1946年、第1次内閣、48~54年第2次から5次に至る内閣を組織。
1951年、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約に調印。
日本の独立を果たし、同時に戦後の国際関係における日本の路線を方向づけた。

吉田は、国内的には日本の伝統を固守する保守主義を貫いたが、
戦後の経済復興には最大の努力をはかり、対外的には対米協調路線をとり、
占領政策の遂行や日米安保体制の構築に努めた。

聡明な頭脳と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立てた。
ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。

外務大臣。衆議院議員(当選7回)。貴族院議員(勅選)。
従一位・大勲位。皇學館大学総長、二松學舍大学舎長。