堀文子

堀文子(ほり ふみこ、1918年(大正7)~(現在))
東京都出身。女子美術専門学校卒

第一回創造美術展発足当初から、新制作協会展、創画会展へと画壇の発展と共に出品を重ねる。
48年、49年の第1回、第2回展で奨励賞を受賞。
52年には、第2回新制作協会展日本画部上村松園賞を受賞。
74年から、創画会展にて活躍を示し、99年に退会する。
現在は無所属作家として、個展を中心に発表を続けている。
また、74年~99まで多摩美術大学の教授として、後進の育成にも尽力。

81年に軽井沢、77年にイタリアの古都アレッツオにそれぞれアトリエを構え、
日本とイタリアを往復して制作に励んでいる。日本とイタリアを中心とした風景画を主として
写実的に素直な自然美を描くことに努めた作品が多く、詩情豊かに表現している。

落款名は「文」
基本的に印章は使用せず、あくまで落款書印のみとしている。

藤原隆能

藤原隆能(ふじわら たかよし)

天仁年間(1108年~10年)頃~保元年間(1156年~1159年)の画家とされている。
左衛門佐清綱の次男で、正五位下主殿頭参河守に叙せられ朝廷の絵所預かりとなる。
また、この絵所預かり制度は隆能が始まりとされる。

代表作に「源氏物語絵巻十三巻(伝:画藤原隆能・詩藤原伊房)」が国宝指定とされている。

藤原信実

藤原信実(ふじわら のぶさね)
鎌倉時代の宮廷画師

宮廷肖像画師の藤原隆信の子として生まれる。
家業を継承し、朝廷の画師として活躍。
父と同じく肖像画に優れ、多くの作品を残したとされているが、「後鳥羽上皇御影」を除くと
いまだ伝・信実筆とされている物が多い。
また異父兄の藤原定家に学んで、和歌を能くし、晩年には入道して寂製と号したとされている。

代表作に「後鳥羽上皇御影(信実筆・国宝指定)」、「三十六歌仙絵巻(伝・信実筆)」、
「随身庭騎図巻(伝・信実筆)」、「承久本北野天神縁起絵巻(伝・信実筆)」など。
また歌集に「藤原信実朝臣歌集」などがある。

印名は「信實」(「信実」)など

藤原基光

藤原基光(ふじわら もとみつ)
本名は盛光のち基光

平安時代後期の画家で後の土佐派、住吉派などの祖とされる画家。
中納言清隆の子として生まれる。
巨勢金持に画の指導を受け、朝廷の画所預かりとなり、従五位上内匠頭、越前守に叙されている。
相撲図や阿弥陀仏三尊如来図、山水図などが伝として残る。

印名は「基光」など

福田平八郎

福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、明治25年(1892)2月28日~昭和49年(1974)3月22日 82才没)
大分市生まれ。号は素僊(そせん)、九州。印の「馬安」は父、馬太郎と母、アンにちなむ。

1910年、京都市立絵画専門学校別科に入学。
翌年改めて、京都市立美術工芸学校に入学する。
卒業制作は同校の買い上げとなる。1918年卒業。

1919年、第一回帝展に「雪」が入選。第三回帝展に出品した「鯉」は特選、宮内省(現・宮内庁)が買い上げる。1924年には審査員となる。
1930年、中村岳陵、山口蓬春らと六潮会に参加。
1936年、京都市絵画専門学校教授となる。

芸術院会員、日展顧問、文化功労者、文化勲章受勲

画風は、対象がもつ雰囲気、美しさを抽出した表現が特徴とされる。
生涯「水」の動き、感覚を追及していたとされる。

福田豊四郎

福田豊四郎(ふくだ とよしろ、1904年(明治37)~1970年(昭和45))
秋田県出身。本名は福田豊城(とよしろ)

京都に出て川端龍子のちに、土田麦僊に師事。
国画創作協会、師主催の青龍社展に出品後、33年14回帝展に出品し、青龍社から除名を受ける。
その後、吉岡賢二らと新美術人協会を設立したが、解散。
新たに創作美術協会を結成し、新日本画を志す有力団体として活躍した。

代表作に「東福寺の風景」「早苗曇り」「秋田のマリア」「踊る娘たち」など、
京都の風景画や、郷里の秋田を題材にしたものを残す。

印名は「豊」 「福田豊」 など

福田恵一

福田恵一(ふくだ けいいち、1895年(明治28)~1956年(昭和31))
広島県出身。本名は恵一。号は丁土、瑶林、蓬庵。東京美術学校卒

1917年、東京美術学校図画師範科を卒業。
その後、大阪に移り、しばらくは制作の傍ら、中学校や女学校、大阪美術学校などで、
教諭を務め後進の指導に尽力。
1923年、京都の西山翠嶂主宰「青甲社」に入塾。その指導を受ける。
翌年、第5回帝展にて初入選となり、以後、25年第6回展、28年第9回展にて「文覚」で特選を受賞。
この頃から京都の居を移る。教職を辞して本格的に画家活動を始める。
以降、新文展、戦後は、日展に出品するなど人物像や歴史風俗をモチーフにした作品を
多く残し中堅作家として活躍を示した。

印名は「恵」 「恵一」 「恵一畫印」(「恵一画印」) 「恵畫記」(「恵画記」) 「恵一之印」 など

福王寺法林

福王寺 法林(ふくおうじ ほうりん、大正9年(1920)~)
山形県生まれ。本名は雄一。6歳のときに左眼を失明。東京在住。

上村廣成に師事。のち復員し、田中青坪に師事し、院展の中心作家として活躍。
1949年、作品「山村風景」が日本美術院展覧会に初入選。

幼い頃からの夢であったヒマラヤへの取材旅行を始め、これ以降、ヒマラヤを扱った作品が多くなる。

代表作は、「島灯」「ヒマラヤの花」

日本美術院理事、勲三等瑞宝章、文化勲章、文化功労者、
山形県名誉県民、米沢市名誉市民。

息子の福王寺一男も日本画家。

山形県米沢市に福王寺法林記念館がある。

福井江亭

福井江亭(ふくい こうてい、1865年(慶応元年)~1937年(昭和12))
東京出身。本名は信之助。通称は信之進。号は江亭、天真堂。

はじめ洋画を学ぶが、後に川端玉章に師事して日本画に転向する。
1991年、日本青年絵画協会、98年に日本画会の結成にそれぞれ参加する。
また、同門であった島崎柳塢・結城素明・平福百穂らと共に无声会を結成。
1903年、内国勧業博覧会で「猛虎」が褒状、07年東京勧業博覧会で「群鶴」が三等賞を受賞。
官展へは、09年文展に一度のみ出品して、竜虎の争」が入選となる。
後年は、中国を5年間に渡り遊学し、1931年に滞中作を個展で発表。

印名は「福井」 「福」 「江亭」 「天真堂主人」 など

広島晃甫

広島晃甫(ひろしま こうほ、1889年(明治22)~1951年(昭和26))
徳島県出身。本名は新太郎。号は晃甫のち滉人。東京美術学校日本画科卒

当初は、高松にて蒔絵技術を学んでいた。
その後、画家を目指して上京。
美術学校卒業後は、白馬会洋画研究所に入所して画技の研鑽に努める。
1916年、洋画家の長谷川潔らと共に、日本版画クラブを創立。展覧会を主宰する。
また文展においても、1919年の第一会展より出品し、同年と翌年第2回文展にて特選を受賞。
その後、日独展覧会の委員に選出されて渡独しており、約7年間ヨーロッパを中心に遊学した。

大正期の作品では、幻想感漂う世界と浪漫派的な人物表現を中心に
人物・肖像画を制作していたが、後年は写実的な彩色美溢れる花鳥画や風景画に
変貌を遂げている、また、最晩年は雅号を滉人と称した。62歳没。

印名は「晃甫」 「晃甫画印」 「新印」 など