小山田二郎

(おやまだじろう 1914~1991)

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

文京アート
〒104-0042 東京都中央区入船1-3-9長﨑ビル9F
http://bunkyo-art.co.jp/index.html

小山硬

小山硬(おやま かたし、1934年(昭和9)~(現在))
熊本県出身。東京芸術大学日本画科卒。

熊本県宇土市に生まれるが、幼少時は満州にて過ごす。
戦後11才の頃に帰国、帰国後は山形県にて過ごすが中学時代より画家を志す。
東京芸大では日本画を専攻。卒業後は前田青邨に師事する。
1961年、第46回院展にて初入選。以降、院展を中心に出品を重ねる。
71年、第56回院展にて日本美術院賞・大観賞、78年63回院展美術院賞・大観賞、
81年66回展文部大臣賞、88年第73回展内閣総理大臣賞など院展を代表する画家として活躍。

1970年、春の院展春季展賞(そのほか奨励賞数回)、73年第2回山種美術館日本画大賞展にて
優秀賞などを受賞、また、68年より愛知県立大学日本画科助手、79年より同大学助教授、
81年より同校教授として後進の育成・指導にも尽力を注ぐ。

制作当初はキリスト教(隠れキリシタン)の信仰や伝統的文化を題材にした
天草シリーズを展開していたが、85年の訪中をきっかけに中国文化を題材にしたシリーズや、
日本の富士を題材にした作品を制作し岩彩による人物表現の巧さが特徴。

印名は「硬」「小山硬」など

小茂田青樹

小茂田青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24)~1933年(昭和8))
埼玉県出身。本名は小島茂吉。号は錦仙、大河、空明、青樹。

元々は小島姓であったが、幼少時に叔父の養子となり、小茂田姓となる。
1908年に画家を志して上京、松本楓湖の画塾「安雅堂塾」に入塾。
11年、第11回巽画会にて初入選。翌年には褒状、13年には三等銅賞を受賞。
14年、再興院展に参加、また同年今村紫紅を中心とした赤陽会の結成に参加。
以降、両展を中心に作品を発表(赤陽会は紫紅が没した為17年に解散)。
21年、院展同人に推挙される。
30年より帝国美術学校にて後進の育成にも尽力を示す。

花鳥、静物、風景など扱い画題は幅広いが確たる写生を基とした
現実味のある克明な写実技法が特徴で日本画新時代の基盤を築いた一人。

印名は「青樹」

小村大雲

小村大雲 (おむらたいうん 明治16年(1883)1月9日~昭和13年(1938)2月20日 54才没)
島根県楯縫郡平田町(現出雲市平田町袋町)に生まれる。
名は権三郎、字は厳座、子荘。別号は豊文、赤松子、碧雲湖畔人、豊瑞、豊花等。

京都で修行し、山元春挙に師事する。
大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が
第6回文部省美術展覧会で第2科3等賞6席に入賞、
以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。

大正8年、第1回帝国美術展覧会で「推薦」にあげられ永久無鑑査となる。
以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。

小野竹喬

(おの ちっきょう、 明治22年(1889)11月20日~昭和54年(1979)5月10日 89才没)
岡山県笠岡市西本町に生まれる。
1906年、京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。

京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)に学ぶ。
村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成。号を「竹喬」と改める。

京都市美術専門学校教授、日本芸術院会員、文化勲章を受章

岡山県笠岡市に笠岡市立竹喬美術館がある。

鑑定人・鑑定機関

ギャラリー鉄斎堂
京都市東山区新門前通東大路西入ル梅本町262
Tel:075-531-6164
http://www.tessaido.co.jp/gallery.html

落合朗風

落合朗風(おちあい ろうふう、1896年(明治29)~1937年(昭和12))
東京都出身。本名は平治朗 、常平。号は朗風。川端画学校卒

菊池契月次いで小村大雲に師事。
当初は再興院展を中心に出品を重ねていいたが、1921年より帝展に出品を始める。
しかし、伝統と格式のある展覧会では自分の自由な表現ができないとして、
31年より川端龍子の主宰する青龍社展に活躍の場を移し翌年同人に推挙。
この青龍社も長くは所属せず34年に脱会する。
同年に明朗美術聯(連)盟を川口春波と共に結成した。

夭折の画家であったが、独自に洋画(外光派)の技法を研究して
伝統的な日本画の世界観に取り入れるなど、新しい日本画を常に画策した新感覚派の画家であり、
円熟期を見ることなく早死したのは日本画発展にとっても大きな損失であったとされている。

印名は「常平」など

尾竹国観

尾竹国観(おだけ こっかん、1880年(明治13)~1945年(昭和20))
新潟県出身。本名は亀吉。号は国観

幼少期から画才を示し、上京後、小堀鞆音、高橋大華に師事する。
主に歴史画を得意とし、水墨画にも優れた。
門下には織田観潮がいる。

印名は「國雚」「國觀」「國觀」「戜雚」など

尾竹越堂

尾竹越堂(おだけ えつどう、1868年(慶応4)~1931年(昭和6))
越後国(新潟県)出身。本名は熊太郎。号は、越堂、国雪、国一、国弌

はじめ、浮世絵を歌川国政に学んだといわれる。
1889年ごろより富山に移り、国雪や国一、国弌の雅号を用いて
売薬版画や新聞挿絵、神社の絵馬などの仕事をはじめた。
99年ごろに大阪に移って大阪美術会委員、大阪図案意匠絵画会図案部審査員に就任。
この頃より越堂の号を使い始めたといわれる。
富山在住時の1894年ごろより、本格的な日本画制作にも打ち込む。
同年の富山共進会で銅賞を受賞、1900年の大阪画会展でも銀賞を受賞、巽画会にも会員として参加。
11年第5回文展にて初入選。13年より居を東京に移し以降、文展に連続して入選を重ねる。
実弟の尾竹竹坡、尾竹国観と共に八華会を結成して活動を共にした。

印名は「越堂」 など

小田海僊

小田海僊(おだ かいせん、1785年(天明5)~1863年(文久3))
長州(山口県)出身。本名:煥のち嬴(えい) 。字は巨海。号は、海僊(海仙)、百谷、南豊。

上京後は松村呉春に師事。四条派の画技を習得した。
その後、頼山陽の知遇を受け、南画にも興味を示し、また浦上春琴、田能村竹田ら文人画かとも親交。
文化10年ごろを境に南画の作品が増えるが山水、花鳥のほか、独自に研究した唐美人画の描写に優れた。

印名は、「百谷山人圓書記」 「百谷」 「読書 以医俗」 「才子獨行」 「才戦眼暇頭雪色」
「楊 芙蓉園」 「白眼看丗上人」 「天香空外琴風」 「錦織邦農」 「巨海」 「巨海氏」
「王嬴之印」 「王嬴」 「王嬴巨海」 「南渠秋水春」 「海仙」 「漸入佳境」 「芙蓉生在秋江上」 など

小栗宗丹

小栗宗丹(おぐり そうたん、(不明)~(寛正5 又、文正元年とも))
号は助重、自牧

室町時代中期の画家。

常陸国小栗城主小栗満重の子とも伝えられるが正確には不明。
京都相国寺に入り、周文に師事。
そのほか牧渓、玉澗、夏哇ら当時の宋画人に私淑して独自の画風を構築。
また、足利義政から扶持を受け、室町殿(花御所)の増築の際絵師として参加。
周文没後はその後継者と言われた。
門下に狩野正信がいる。

印名は「宗丹」「主賀」など