千宗旦

千宗旦(せん そうたん、せん の そうたん、天正6年(1578)~万治元年11月19日(1658年12月13日) 81才没)

少庵の子として生まれた宗旦は、十歳の頃に祖父利休の希望で大徳寺に渇食として預けられる。家督争いを避けるために仏門に入れられたと言われている。春屋宗園のもとで禅の修行を積み、得度した。
1594年、千家再興が叶ったことから、弟子らとともに利休流のわび茶の普及に努めた。
乞食修行を行い『乞食宗旦』と呼ばれたという。

晩年に建てた一畳台目(約二畳の広さ)の茶室は、
侘び茶の精神を表した究極の茶室とされている。
千家中興の祖とされ、毎年11月19日には宗旦忌が営まれる。

清水公照

清水公照(しみず こうしょう、1911年(明治44)~1999年(平成11))
兵庫県出身 龍谷大学卒

1927年東大寺塔頭宝厳院に入寺、清水公俊(後の義父)の下で修行し、僧名を公照。
33年からの天龍寺での四年間の禅の修業を経て、37年には東大寺塔頭龍蔵院、同上生院住職に就任。
戦時中は、中国に出征となるが、帰国後の46年に、東大寺塔頭宝厳院住職に就任。
47年に青々中学(後の東大寺学園)を創建、63年には東大寺幼稚園と女子学園園長に就任するなど
学校教育にも貢献。
華厳宗宗務長、東大寺執事長などの就任を経て、75年から大僧正、華厳宗管長、
東大寺住職 第207・208世別当を歴任、81年には東大寺長老となり「仏教伝導文化章」を受章。

氏の代表的な仕事の一つに、71年から10年間かけての東大寺大仏殿の
「大仏殿昭和大修理落慶大法要」があり主宰、厳修を務めた。
またそうした法務の傍ら美術品研究家として知られ作家作品の箱書、古書や古陶磁の鑑定を行い、
また自らも絵画、陶芸、書を中心に多数の作品を制作。
特に陶芸作品でテラコッタ風の「泥仏」とされる仏像は愛嬌があり大変人気が高い。

印名は「公照」 「公」 「光照之印」 「東大長印」 「華風」(「花風」) 「東大寺儈」 「風人月散」
「寶巌精舎」(「宝厳精舎」) 「華巌子」(「花厳子」) 「莫高窟」 「八十五翁公照」 「有一喜」 など

仙崖義梵

仙崖義梵(せんがい ぎぼん、1750年(寛延3)~1837年(天保8))
美濃国(岐阜県)出身。

江戸後期の臨済宗僧で、本姓は藤井。
幼少の頃に、美濃清泰寺空印和尚の下に出家得度し、仏籍となる。
以降、各地の諸寺にて参禅し、1790年ごろに博多聖福寺第23世住持に出世。

書画に秀で、とくに俳画的な墨画を得意として、洒落っ気のある画風で人気となった。
※仙崖の「崖」は本来は山冠のないものが正式。

印名は「仙崖」など

島崎藤村

(しまざき とうそん、明治5年2月17日(1872年3月25日)~昭和18年(1943年)8月22日 72才没)
筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生まれた。
生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる地方名家で、 父の正樹は17代当主で国学者。

父から『孝経』や『論語』を学ぶ。
1887年、明治学院普通部本科(現・明治学院大学の前身)入学。
キリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふける。
また松尾芭蕉や西行などの古典書物も読み漁った。
明治学院普通部本科(現在の明治学院大学)第一期卒業生で、校歌も作詞している。

1893年、北村透谷、星野天知の雑誌『文學界』に参加し。同人として劇詩や随筆を発表した。
1897年、処女詩集『若菜集』を刊行。
小説『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家になる。
1935年、日本ペンクラブを結成し初代会長に就任。

岐阜県中津川市に藤村記念館がある。

関精拙

関精拙(せき せいせつ、1877年(明治10)~1945年(昭和20))
兵庫県浜坂町出身

2歳の頃に浜坂町天隣寺に養子として預けられ6歳で得度、僧名元浄を名乗る。
1893年に京都天龍寺の僧堂に入り橋本峨山のもとで修行。
1900年には天隣寺に戻り住職に就任。
次いで神戸の徳光院住職、本山天龍寺山内の慈済院住職を歴任し、
22年に7代天龍寺派管長に就任する。
その後、天龍寺240世住持、天龍僧堂師家として同派の布教と多くの弟子の育成に尽力。
主な弟子に関牧翁、清水公照など。

印名は「精拙」 「霤亀山主」 など

関牧翁

関牧翁(せき ぼくお、1903年(明治36)~1991年(平成3))
群馬県出身 慶応大学医学部中退

はじめ、慶応大学医学部に在学していたが、当時武者小路実篤の提唱した「新しき村」運動
(自由解放運動)に触発されて退学。
その後1928年に、岐阜瑞厳寺岡部洪宗の下で、得度して仏門に入る。
30年には京都天龍寺で、関精拙の下で修行を重ね、39年に天龍寺師家、
46年に若くして天竜寺派八代管長に就任。

規則・宗制の改正をするなど天竜寺の経営から後進の指導まで貢献を示し、
また自由奔放な禅僧として知られた。
尚、豪放な一筆書きや達磨図などの茶掛をよく残しており茶人に好まれている。

印名は「牧翁」 「天龍寺門」 「龍門萬仿」など

松花堂昭乗

松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、1584年(天正12)~1639年(寛永16))
摂津国堺出身。号は南山隠士、滝本坊昭乗、松花堂、余生

出自については異説が複数あり、解明されていないが、昭乗の兄が奈良興福寺一乗院門跡尊勢(近衛信伊の次弟)の坊官を務める中沼家に仕えていたことにより、昭乗も奈良に移り、中沼家ならびに近衛家に仕えるといわれるのが一般的に有力な説。
その後、17歳の頃(1600年前後)、山城国八幡の石清水八幡宮瀧本坊実乗のもとで出家、僧籍となり、昭乗と名乗り、青蓮院流や大師流の書を研究。
後に、松花堂流の書を確立、書道のほか歌道、水墨画、茶の造詣を深め、大徳寺沢庵・江月などの禅僧や小堀遠州・金森宗和などの茶人とも親交を深める。
晩年は風雅を極めて、当時の文化人として近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称される。
尚、歌を近衛前久、近衛信伊より学び、画は1615年の大阪夏の陣の際逃げ延びてきた狩野山楽(武士・絵師)を囲っていた際に師事したと言われている。

代表作に「十六羅漢図」「三十六歌仙帖」

印名は「昭乗」「空識」「惺〃翁」「山〃雲」「松花堂」など

千利休

千利休(せんのりきゅう/せんりきゅう、大永2年(1522)~天正19年(1591年4月21日) 70才没)
和泉国堺の商家、「魚屋」に生まれる。
幼名は与四郎(與四郎)。法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。
広く知られた利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって正親町天皇から与えられた居士号である。

若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、武野紹鴎に師事し、
師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。

織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えた。
1587年、北野大茶会をし、一時は秀吉の重い信任を受けた。

1585年、宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。
秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、
碌も三千石を賜わるなど、茶人としての名声の絶頂にあった。

利休は突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられ、
京都に呼び戻され聚楽屋敷内で切腹を命じられる。

利休の茶の湯は何も削るものがないところまで無駄を省いて、
緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)。
また、「露地」も利休の業績として忘れてはならない。
それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。
このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを
「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。

「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、
茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。

坂本龍馬

坂本龍馬(さかもと りょうま、1835年(天保6)~1867年(慶応3))
土佐(高知県)出身。本名は(諱)直陰のち直柔。

藩校にて学問、剣術を学んだ後1853年、56年の二度の江戸遊学にて
北辰一刀流(千葉定吉道場)など剣術を学ぶ。
58年に土佐に帰国し、61年には土佐勤王党を結成するが、62年には土佐藩から脱藩、
のち江戸にて勝海舟に入門、当時軍艦奉行であった海舟に尽力。
神戸海軍操練所、神戸海軍塾の設立に貢献した。
しかし64年には、幕府の政変により神戸海軍操練所および神戸海軍塾が閉鎖されると
海舟の手配により、薩摩藩から庇護を受け、長崎にて亀山社中(後の海援隊)を結成。
武器を中心とした海外貿易を開始する。
海外貿易を通して、新しい日本の創造を決意し、66年に犬猿関係であった薩摩藩(西郷隆盛)と
長州藩(桂小五郎)に協力を要請し、仲介役となって薩長同盟が成立。
67年には龍馬が提唱した大政奉還を迎えるが、同年同士であった中岡慎太郎と共に京都で会食中に
近江屋にて暗殺される。