長澤蘆雪

長澤廬雪(ながさわ ろせつ、1755年(宝暦5)~1799年(寛政11))
応挙門下十哲の一人。本名は正勝、魚

淀藩士上杉家の子として生まれ京都に出て円山応挙に師事。
寛政の御所造営の際には御涼所上御間を任されて襖絵、障壁画など活躍を示す。
初期の応挙門下の中では群を抜いた存在を示した。
その他にも、南紀を遊歴中に多くの障壁画を手掛け串本無量寺、富田草堂寺をはじめ
多くの寺院に作品を残す。
また、寛政7年には香住大乗寺(通称:応挙寺)の「群猿図」の製作にも従事した。

画風は応挙門下としては一線を画した自由奔放で豪放な独自の画境を若くして確立しており
当時としても異色画家とされていた。一説によると素行の悪さから応挙に破門を言い渡されたと
されているが、正確な事実関係は確認されていなく、応挙に対してあまりに画風が相反していた為に
後世に俗説として流された物とした見解が有力的。

代表作に「官島八景図(重文指定)」「山姥図」「月夜山水図」「唐美人」「竹に犬の子」大乗寺「群猿図」など

印名は「魚」 「長澤魚」 「長魚」 「魚印引居士」 「氷計」 「長澤廬雪」 など

中村貞以

中村貞以(なかむら ていい、1906年(明治39)~1982年(昭和57))
大阪府出身。本名は清貞

幼年のころより、浮世絵の修行を積み線画の描法を習得。
1919年より、北野恒富に入門して本格的に日本画の技法を学ぶ。
23年に第9回春の院展で初入選となる。第1席を受賞。
同年の秋の(本)院展でも入選となり翌年院友に推挙、以降も院展に出品、入選を重ねる。
32年の日本美術院賞受賞を経て、36年に同人となる。
またその間に画塾「春泥会」を34年に設立して、後進の育成にも尽力。

戦後は60年に院展文部大臣賞、66年に前年の院展出品作
「シャム猫と青衣の女」で日本芸術院賞を受賞。
また地元の芸術文化向上を称されて、51年に大阪府芸術賞、60年に大阪市民文化賞をそれぞれ受賞。

当初は人物画、風景画を中心に制作してきたが、戦後からはほとんど美人画を専門に描き
緻密な描線と構図、色彩で自らの精神世界をモデル反映させ、そのモデルには長女を使って
他の美人画作家には無い、現実性を表現している。

印名は「貞」 「貞以」 「貞以印信」 「清」 など

中村不折

(なかむら ふせつ、慶応2年(1866)~昭和18年(1943)6月6日 78才没)
東京の京橋に生まれ。幼名を鈼太郎。

1887年、高橋是清の館に住み込みながら小山正太郎に師事し絵を学ぶ。
1896年、正岡子規とともに新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍し、中国に渡り書に興味を持った。
1901年、渡仏して、ラファエル・コランやジャン・ポール・ローランスらから絵の指導を受ける。
1905年、帰国し明治美術会の後身である「太平洋画会」に所属。主に歴史画の分野で活躍した。
1934年、太平洋美術学校校長に就任。
1936年、台東区根岸の旧宅跡に書道博物館を開館した。

森鴎外や夏目漱石等の作家とも親しく挿絵や題字を書く。
不折の筆跡は現在でも宮坂醸造の清酒「真澄」や新宿中村屋のロゴに見ることができる。

帝国美術院会員、芸術院会員。

中島来章

中島来章 (なかじまらいしょう 寛政8年(1796)~明治4年(1871) 75才没)
大津生まれ。名は来章、字は子慶、別号は春分斎、神通堂。

幼い頃より絵の修業のために京都に出る。
渡辺南岳、円山応瑞に師事する。

山水人物花鳥を得意とした。
幕末における円山派を代表する大家となり、四条派の横山清暉、塩川文麟、岸派の岸連山と共に
平安四名家と呼ばれた。

弟子には、幸野楳嶺や、川端玉章がいる。

中島千波

中島千波 (なかじまちなみ 昭和20年(1945)10月21日~)
日本画家 中島清之の三男として長野県に生まれる。

1965年 東京芸術大学美術学部日本画科に入学。
1969年 院展に初出品初入選する。
1971年 東京芸術大学大学院を修了。
1979年 第5回山種美術館賞展 (山種美術館) で優秀賞受賞
1980年 第2回日本秀作美術展 (日本橋・高島屋) に選抜出品
1984年 「横の会」結成に参加する。
1992年 おぶせミュージアム・中島千波館(長野県小布施町) 開館

桜や牡丹などに代表されるみずみずしく華やかな花の作品、社会性、宗教性に富む人物画の大作、そして装丁画や挿絵など幅広い活動で知られ、現代日本画を代表する作家の一人として高く評価されています。

中村大三郎

中村大三郎 (なかむらだいざぶろう、明治31年(1898)~昭和22年(1947) 50才没)
京都府に生まれる。

西山翠嶂に師事する。
在学中の大正7年第12回文展に「懺悔」が初入選、
同8年の第1回帝展「雙六」、第2回展の「静夜聞香」と
第4回展の「燈籠大臣」が特選となっている。

早くから人物画題を好み、美人画も多い。
大正15年(1926)、第7回帝展「ピアノ」を機に現代風俗の美人画に転じた。

昭和8年(1933)画塾を創立し、後進の育成に努める。

中村岳陵

(なかむら がくりょう、明治23年(1890)3月10日~昭和44年(1969)11月20日 78才没)
静岡県下田市生まれ。本名は恒吉。

10代のうちに上京し、琳派の流れを汲む野沢堤雨や土佐派の川辺御楯に師事。
1912年東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒。
日本美術院同人、26年日本美術学校教授を務める。

1930年福田平八郎、山口蓬春と六潮会を設立する。
1950年に日展へ活躍の場を移すまでは、院展を活躍の場とする。

伝統的な大和絵を出発点とする岳陵ですが、その枠にとらわれず、有職故実を見事に表現した歴史画や、近代的な女性を描いた人物画、琳派風の動植物画、写実的な風景画など、様々な分野の作品を数多く残しています。

代表作に「輪廻物語」「気球揚る」等。

鑑定人・鑑定機関

中村岳陵鑑定会
〒249-0002 神奈川県逗子市山の根2-2-13
Tel:0468-71-2379

中路融人

中路融人 (なかじゆうじん 昭和8年(1933)~)
京都生まれ。

山口華楊に師事する。
1962年 第5回新日展特選・白寿賞(以後特選1回)

日展評議員、日展文部大臣賞、日本芸術院賞、日本芸術院会員。
2006年第38回日展審査主任を務める。

中村正義

中村正義(なかむら まさよし、1924年(大正13)~1976年(昭和51))
愛知県出身。本名は中村正義(まさよし)

1946年、中村岳陵の画塾蒼野社に入塾する。
同年、第2回日展で初入選。
50年、第6回日展で特選・朝倉賞、52年第8回日展で特選・白寿賞を受賞。
1960年、36歳の若さで第3回新日展の審査員となるが、現画壇の体制では自由な表現ができないと
独自に悟り、翌年から日展及び師の画塾蒼野社を脱会し、無所属画家として制作を続けた。

終生のテーマに「顔」を取り上げ、「絵のすべては自画像」「何を描いても自分自身」と考察し
自画像の作品は「顔」の連作をはじめとして、多種多様な顔作品を残す。
作品の中には、口から飛び出た歯を持つ顔、曲がった鼻を持つ顔、
更に顔の中に違う顔を描いた作品など、一目すると奇形な顔の作品も多数制作しており、
自身の著作物に『創造は醜なり』としている。
52歳という若さでなくなるまで、芸術の真髄を模索し、その表現する場を求め続けた
夭折の画家として日本画史にその名を残す。

印名は「正義」「義」ほか

中村宗弘

中村宗弘(なかむら むねひろ、1950年(昭和25)~(現在))
神奈川県出身。祖父は日本画家の中村岳陵(1890~1969)。幼稚舎から慶応義塾に学ぶ。

高校へ入学後、1965年中村岳陵の門下となり、本格的な画家修業に入る。
1968年高校3年で、第3回日春展に『早春』を初出品し、日春賞受賞。
同年、秋の第11回新日春展に『翠明』を初出品し、特選・白寿賞受賞。
1969年、第4回日春展に『早晨』出品、奨励賞受賞。
第1回日展に『月鐘』を無鑑査出品し、外務省買い上げとなる。
岳陵没後、71年には、児玉希望の推挙により、東山魁夷の指導を受け、
魁夷直伝の技法により幻想的な風景画を継承する。
1973年、慶應義塾大学文学部東洋史学科卒業。
東山魁夷のもとで、さらなる研鑽を積み、1976年26歳で日展会友となる。

日展以外での活躍も目覚しく、1978年銀座・村越画廊での初個展。
1978年、80年には日本橋三越、1982年池袋西武などで開催する。
個展では「四季彩々」「京洛十二ヶ月」「光と霧」などのテーマで作品を展開。

現在は、日展、個展を中心に活躍。
伝統を重んじながらも、時代の空気を取り入れた新しい日本画の創造を目指し、
活躍の場を広げている。

印名は「宗弘」「技苑荘」など