本阿弥光悦

本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ、1558年(永禄元)~1638年(寛永14))
京都出身。本名は多賀。

代々、京都の刀の鑑定、研磨、拭いなどを家業とする本阿弥家8代本阿弥光二(7代光心の養嗣子)
の子として生まれる。家業に従事したが、その傍らで茶を古田織部に師事。
また、本業のほかに陶芸、蒔絵、書などに独自の芸術的センスを発揮。
陶芸では楽茶碗、漆芸では金をふんだんに用いた金蒔絵といった優雅な作風を示し、
書では近衛信尹、松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人として称されるなど本業よりも
芸術家として名が残っている。

そうした背景には光悦の天才的な才能もさることながら、家柄的な資金力があったためともいわれる。
1615年には徳川家康から、洛北鷹ヶ峰の土地を拝領し一族が移住、
現在は、本阿弥一族が法華宗徒であったため日蓮宗の光悦寺として残る。

代表作に「国宝・楽焼片身替茶碗:銘不二山」、「国宝・船橋蒔絵硯」、
「重文・鶴下絵和歌巻(光悦書、宗達下絵)」、「重文・鹿蒔絵笛筒」、
「重文・黒楽茶碗:銘雨雲」など

印名は「光悦」など

樋口一葉

樋口 一葉(ひぐち いちよう)明治5年(1872年5月2日)~明治29年(1896)11月23日 25才没)
東京生まれ。本名は夏子、戸籍名は奈津。近代以降では最初の職業女流作家である。
中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。

7歳の時、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。
1877年、本郷小学校に入るが、続かず、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学。
1886年、遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門。
萩の舎時代に伊東夏子や田辺龍子と出会い、助教として講義もしている。

20歳で小説を書こうと決意し、「かれ尾花一もと」を執筆。
同年に執筆した随想で「一葉」の筆名を初めて使用した。

東京朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し小説を学ぶ。
図書館に通い詰めながら処女小説「闇桜」を桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した。
幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、一葉の出世作となる。

ヨーロッパ文学に精通した島崎藤村や平田禿木などと知り合い自然主義文学に触れあう。
一葉は、「雪の日」など複数作品を「文學界」で発表。

1896年、「文芸倶楽部」に「たけくらべ」が一括掲載されると鴎外や露伴らから絶賛される。
「めさまし草」も高く評価され、「文学界」同人も多く訪れるようになる。
5月には「われから」、『日用百科全書』に「通俗書簡文」を発表。

11月23日に24歳と8ヶ月で死去。
一葉の作家生活は14ヶ月あまりで、死後の翌1897年には『一葉全集』『校訂一葉全集』が刊行された。

一葉の肖像は2004年11月1日から日本銀行券の五千円券に新デザインとして採用された。

東京都台東区に一葉記念館がある。

古川大航

古川大航(ふるかわ たいこう、1871年(明治4)~1968年(昭和43))
埼玉県出身。本名は宋琢

僧侶であった叔父の養子となり、仏門に入る。
妙心寺派坂上宗詮の下で得度、そのほか小林虎関、池上湘山両老師の下に参禅して、
1952年に妙心寺派22世管長に就任。

国内外を問わず、世界各国を来訪して布教活動に貢献を示す。

落款名は「大真年」「古川宗琢」など

橋本凝胤

橋本凝胤(はしもと ぎょいん、1897年(明治30)~1978年(昭和53))
奈良県平群村出身、本名は東丈太郎

1904年に法隆寺に入山して佐伯定胤の下で唯識を学ぶ。
翌年より師の意向で薬師寺に移住、1939年薬師寺123世管主。
翌年には法相宗管長にそれぞれ就任、67年に管主を弟子の高田好胤に譲り自らは薬師寺長老に就任。
共に金堂や西塔の再建に取り組んだ。

「大正新脩大蔵経」編纂に参画、中国、インド、チベットなどを遊学。
奈良県文化財保護やインドに日本寺建立のために尽力、インドのブッダガヤに仏塔を建立など。

また、政治家の大野伴睦、佐藤栄作や阪急グループ社長の小林一三と親交を深め、
平城宮跡の国有化実現に功績を残す。

印名は「龍華庵主」 「不染」 「薬師大支」 「大基凝胤」 など

藤井誡堂

藤井誡堂(ふじい かいどう、1898年(明治31)~1984年(昭和59))
大徳寺515世管長、大徳芳春院二十二世、大徳寺塔頭三玄院住職

戦後より大徳寺の復興に瑞巌、雲窓らと共に尽力を示す。
特に茶陶に深い造詣を持ち、京焼陶工を指導して、江戸時代の紫野焼復興に功績を示す。
自作の茶碗、茶杓、茶掛書も数多く製作、茶席では大徳寺歴代管長の中でも人気の高いひとり。

印名は「誡堂」 「龍寶」(龍宝) 「露堂〃」 「麻弎斤」(「麻三斤」) など

白隠慧鶴

白隠慧鶴(はくいん えいかく、1685年(貞享2)~1768年(明和5))
駿河国原宿(静岡県沼津市)出身。本名は慧鶴(法名)、白隠(道号)

長沢某家の三男として生まれたが、15歳の頃に地元の松蔭寺単嶺祖伝の下に出家。
その後、清水の禅叢寺に参禅したのち諸国を遊学し、越後高田の英巌寺性徹師の下で悟りを開く。
以後も遊方を続け、信濃国飯山の道鏡慧端の下で大悟して、その法嗣となる。
1716年に、地元松蔭寺に戻り、駿河を中心に臨済宗の復興に力を注ぎその布教活動に尽力。
1763年に、三島竜沢寺を中興開山するなど臨済宗中興の祖として後年に名を残す。
禅画、墨蹟をよく残すほか、代表著書に「坐禅和讃」などを残す。

印名は「白隠」「慧鶴」「慧鶴之章」「臨済正宗」「顧鑑咦」「龍徳先天」など