澤田政廣

澤田 政廣(さわだ せいこう、明治27年(1894)~昭和63年(1988)5月1日 94才没)。
静岡県熱海市生まれ。本名は寅吉。

山本瑞雲に師事。1918年東京美術学校彫刻科別科卒業後、31年帝展審査員、41年三木宗策と正統木彫会を結成、47年日展審査員、50年日展運営会参事、51年芸術選奨文部大臣賞、53年日本芸術院賞受賞、58年日展評議員、62年日本芸術院会員、日展理事、65年日展常務理事、日本彫塑会会長、70年同理事長、71年日展顧問、73年文化功労者、1979年文化勲章受章、日本彫塑会名誉会長。

代表作は、『吉祥天』『大聖不動明王』。仏像彫刻を行なう。

佐藤朝山

佐藤朝山(さとう ちょうざん、1888年(明治21)~1863年(昭和38))
福島県相馬郡出身。本名は清蔵、別号は阿吽洞玄々

祖父、父と宮彫師で、幼い頃よりノミ彫刻に親しんでいたが
職人ではなく芸術家を志して山崎朝雲に師事。
1914年、再興第一回院展に「シャクンタラ姫」を出品して同年同人に推挙。
その後、1922年に日本美術院の留学生として渡仏、ヨーロッパ彫刻を学ぶ。
帰国後は再び院展・そのほか帝展などで活躍。
戦時中は郷里に疎開するが、その戦災で、作品のほとんどが焼失または四散。
戦後は京都妙心寺内に移り制作を再開。

伝統的な技法と西洋の流線彫刻技法を交えて、人物の表情に生命力を与え、独自の世界を確立。
代表作に、制作10年を費やした三越本店「天女像」など。
また、師との制作意識の対立により号を自ら阿吽洞玄々と改号。

落款名は「朝山」。印名は「清蔵印」など

佐藤忠良

佐藤忠良(さとう ちゅうりょう、1912年(明治45)~(現在))
宮城県出身。東京美術学校彫刻科卒

在学中の1938年に国画会展にて奨励賞を受賞する。
美校卒業後は、新制作派協会彫刻部の創立に会員として参加。
1944年に、召集され兵役となりシベリア抑留。48年に復員。
新制作派協会展と現代日本美術展を中心に作品を発表する。
60年に第3回高村光雲賞、71年第2回現代国際彫刻展招待出品で北海道立近代美術館賞、
74年第15回毎日芸術賞、同年文部大臣賞芸術選奨、75年中原悌二郎賞、89年朝日賞など受賞。
また、81年国立ロダン美術館や94年三重県立美術館、2000年高島屋(東京日本橋・大阪なんば)など
国内外での有名ギャラリー、百貨店、美術館で個展を開催。

主にブロンズ女人像や裸婦、人物(頭部)の彫刻に優れ緻密で具象的なフォルムを展開し、
近代彫刻家を代表するひとり。

刻印は「CHURYO」など

清水九兵衛

清水九兵衛(きよみず きゅうべい、1922年(大正11)~2006年(平成18))
愛知県出身。本名は裕詞。号は九兵衛、7代 六兵衛。東京芸術大学鋳金科卒

在学中より義父6代 清水六兵衛の後継者として陶芸を手掛る。
卒業後は、日展で北斗賞、特選などを受賞し、審査員なども務めた。
しかし、次第に陶芸から立体造形の世界へ傾倒し、彫刻作品や空間アートなど
前衛的な作品を手掛けるようになる。
彫刻家に転身後は、各彫刻展覧会などで多数の受賞歴を持つ。
代表的なものに、76年毎日芸術賞、77年日本芸術大賞、98年中原悌二郎賞などがある。
1981年、6代六兵衛の死去(80年に没)に伴い7代 清水六兵衛を襲名。
以降、茶陶を中心とした茶碗、香炉、花瓶など用の器を製作。
一方では、陶器の世界にも斬新な美意識をつねにもち、オブジェ陶などもよく制作し、
歴代六兵衛とは違った作陶を展開した。
2000年に子息の清水柾博氏に8代 清水六兵衛を譲り、近年は再び彫刻作品を制作。
2006年7月21日永眠、享年84歳。

印名、陶印は六角印「清」 「裕詞」 「K.KIYOMIZU」 など