森鷗外

森 鷗外(もりおうがい、文久2年(1862年2月17日)~大正11年(1922)7月9日 61才没)
本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。
夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。

代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家の嫡男として、
幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読する。

1867年、村田久兵衛に論語を学ぶ。
1868年、米原綱善に孟子を学ぶ。
1870年、五経、オランダ語を学ぶ。
1872年、10歳で父と上京。向島曳舟通りに転居。
10月、ドイツ語習得のため、本郷の進文学社(私塾)に入学する。
1873年、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学。
1881年、東京大学医学部を卒業。父 森静男の経営する南足立郡千住町の橘井堂医院に転居。
9月、読売新聞に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。
12月、東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医の副の任務につく。

1884年、陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を命じられる。
ライプツィヒ大学でホフマン教授などに学ぶ。『ビイルの利尿作用に就いて』の研究を始める。
その後、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンに渡る。
1890年、『医事新論』を創刊。『国民之友』に「舞姫」を発表。
8月、『しからみ草紙』に「うたかたの記」を発表。
『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを執筆。

陸軍軍医総監(中将相当)・正四位・勲二等・功三級・医学博士・文学博士。
東京美術学校専修科美術解剖学講師、慶應義塾大学の文学科顧問
帝室博物館(東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長、
帝国美術院(現日本芸術院)初代院長などを歴任。

島根県鹿足郡に森鴎外記念館がある。

本居宣長

本居宣長(もとおり のりなが、1730年(享保15)~1801年(享和元))
三重県出身。本名は小津冨之助のち小津英貞のち本居宣長

松阪の木綿商小津家の次男として生まれる。
兄が早死であった為、22歳のときに家督を襲名する。
しかし家業の経営が上手くいかず、1752年に京都で医者を目指し朱子学者・城景山に師事。
荻生徂徠の学問に私淑して、国学に傾倒するようになる(この頃に本居宣長と改姓・改名している)。
57年には松阪に帰り医者を開業する傍ら、国学研究を進め、63年にはかねてより私淑していた
賀茂真淵に本格的に入門、以降、古事記の研究に没頭。
35年という歳月をかけて古事記の注釈である「古事記伝(全44巻)」を98年に完成させている。
源氏物語の注解「源氏物語玉の小節」などを残しており、江戸中期~後期を代表する国学者として
名を残している。

印名は「鈴屋之印」など

宮本武蔵

宮本武蔵(みやもと むさし、1584年(天正14)~1645年(正保2))
兵庫県高砂市出身。本名は藤原玄信、辨助(弁助)、弁之助

幼い頃より剣技を磨き、13歳にして播磨平福の新当流有馬喜兵衛と戦い打ち勝つ。
以後、剣技上達を一筋に諸国を周遊して更なる向上を目指す。
29才の頃、九州舟島(巌流島)において佐々木小次郎と決闘する間、六十余度の勝負も負けたことが
なかったといわれる。
また、それ以降は島原の乱に唐津藩として参戦するなど活躍を示し、
1640年には熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移り、五輪書、兵道鏡、独行道などを
書き上げるなど兵法者としての一面を見せるほか、書画、彫刻、工芸品にも優れた作品を残している。

印名は「武蔵」「二天」など

正岡子規

正岡 子規(まさおか しき、慶応3年9月17日(1867年10月14日)~明治35年(1902)9月19日 34才没)
伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、八重の長男として生まれる。
名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。

1888年、第一高等中学校予科卒業。 1890年、第一高等中学校本科卒業。
在学中、夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉、寺石正路などが同級。俳句を作り始める。
1892年、日本新聞社入社。
1895年、日清戦争に記者として従軍する。
1896年、子規庵で句会。
1898年、子規庵で歌会。

俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、
近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。

芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って蕪村のように
忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。
また 十九世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、
俳句における新たな詩情を開拓するに至った。

「まり投げて見たき広場や春の草 」
「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと
野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、
文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。
これらのことが評価され正岡子規は2002年、野球殿堂入りを果たした。

俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に創作活動し、
日本の近代文学に多大な影響を及ぼす明治時代を代表する文学者の一人。
死を迎えるまでの6年数ヶ月間は結核を患った。

愛媛県に松山市立子規記念博物館がある。

松尾芭蕉

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644)~元禄7年(1694年11月28日) 51才没)
現在の三重県伊賀市出身。江戸時代前期の俳諧師である。
幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。

若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、
2歳年上の良忠とともに北村季吟に師事して俳諧の道に入った。

1672年、処女句集『貝おほひ』を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。
1675年、江戸に下る。
1678年、宗匠となり、職業的な俳諧師となった。
1680年、深川に草庵を結ぶ。
門人の李下から芭蕉を贈られ、芭蕉の木を一株植えたのが大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。
その入庵の翌秋、字余り調の芭蕉の句を詠んでいる。『芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 芭蕉』

1682年、天和の大火で庵を焼失。
旅に出て、『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残した。
1689年、弟子の河合曾良を伴って『奥の細道』の旅に出る。

蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、
内藤丈草、河合曽良、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。

三重県伊賀市に芭蕉翁記念館がある。