松尾芭蕉

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644)~元禄7年(1694年11月28日) 51才没)
現在の三重県伊賀市出身。江戸時代前期の俳諧師である。
幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。

若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、
2歳年上の良忠とともに北村季吟に師事して俳諧の道に入った。

1672年、処女句集『貝おほひ』を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。
1675年、江戸に下る。
1678年、宗匠となり、職業的な俳諧師となった。
1680年、深川に草庵を結ぶ。
門人の李下から芭蕉を贈られ、芭蕉の木を一株植えたのが大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。
その入庵の翌秋、字余り調の芭蕉の句を詠んでいる。『芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 芭蕉』

1682年、天和の大火で庵を焼失。
旅に出て、『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残した。
1689年、弟子の河合曾良を伴って『奥の細道』の旅に出る。

蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、
内藤丈草、河合曽良、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。

三重県伊賀市に芭蕉翁記念館がある。

本阿弥光悦

本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ、1558年(永禄元)~1638年(寛永14))
京都出身。本名は多賀。

代々、京都の刀の鑑定、研磨、拭いなどを家業とする本阿弥家8代本阿弥光二(7代光心の養嗣子)
の子として生まれる。家業に従事したが、その傍らで茶を古田織部に師事。
また、本業のほかに陶芸、蒔絵、書などに独自の芸術的センスを発揮。
陶芸では楽茶碗、漆芸では金をふんだんに用いた金蒔絵といった優雅な作風を示し、
書では近衛信尹、松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人として称されるなど本業よりも
芸術家として名が残っている。

そうした背景には光悦の天才的な才能もさることながら、家柄的な資金力があったためともいわれる。
1615年には徳川家康から、洛北鷹ヶ峰の土地を拝領し一族が移住、
現在は、本阿弥一族が法華宗徒であったため日蓮宗の光悦寺として残る。

代表作に「国宝・楽焼片身替茶碗:銘不二山」、「国宝・船橋蒔絵硯」、
「重文・鶴下絵和歌巻(光悦書、宗達下絵)」、「重文・鹿蒔絵笛筒」、
「重文・黒楽茶碗:銘雨雲」など

印名は「光悦」など

樋口一葉

樋口 一葉(ひぐち いちよう)明治5年(1872年5月2日)~明治29年(1896)11月23日 25才没)
東京生まれ。本名は夏子、戸籍名は奈津。近代以降では最初の職業女流作家である。
中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。

7歳の時、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。
1877年、本郷小学校に入るが、続かず、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学。
1886年、遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門。
萩の舎時代に伊東夏子や田辺龍子と出会い、助教として講義もしている。

20歳で小説を書こうと決意し、「かれ尾花一もと」を執筆。
同年に執筆した随想で「一葉」の筆名を初めて使用した。

東京朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し小説を学ぶ。
図書館に通い詰めながら処女小説「闇桜」を桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した。
幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、一葉の出世作となる。

ヨーロッパ文学に精通した島崎藤村や平田禿木などと知り合い自然主義文学に触れあう。
一葉は、「雪の日」など複数作品を「文學界」で発表。

1896年、「文芸倶楽部」に「たけくらべ」が一括掲載されると鴎外や露伴らから絶賛される。
「めさまし草」も高く評価され、「文学界」同人も多く訪れるようになる。
5月には「われから」、『日用百科全書』に「通俗書簡文」を発表。

11月23日に24歳と8ヶ月で死去。
一葉の作家生活は14ヶ月あまりで、死後の翌1897年には『一葉全集』『校訂一葉全集』が刊行された。

一葉の肖像は2004年11月1日から日本銀行券の五千円券に新デザインとして採用された。

東京都台東区に一葉記念館がある。

古川大航

古川大航(ふるかわ たいこう、1871年(明治4)~1968年(昭和43))
埼玉県出身。本名は宋琢

僧侶であった叔父の養子となり、仏門に入る。
妙心寺派坂上宗詮の下で得度、そのほか小林虎関、池上湘山両老師の下に参禅して、
1952年に妙心寺派22世管長に就任。

国内外を問わず、世界各国を来訪して布教活動に貢献を示す。

落款名は「大真年」「古川宗琢」など

橋本凝胤

橋本凝胤(はしもと ぎょいん、1897年(明治30)~1978年(昭和53))
奈良県平群村出身、本名は東丈太郎

1904年に法隆寺に入山して佐伯定胤の下で唯識を学ぶ。
翌年より師の意向で薬師寺に移住、1939年薬師寺123世管主。
翌年には法相宗管長にそれぞれ就任、67年に管主を弟子の高田好胤に譲り自らは薬師寺長老に就任。
共に金堂や西塔の再建に取り組んだ。

「大正新脩大蔵経」編纂に参画、中国、インド、チベットなどを遊学。
奈良県文化財保護やインドに日本寺建立のために尽力、インドのブッダガヤに仏塔を建立など。

また、政治家の大野伴睦、佐藤栄作や阪急グループ社長の小林一三と親交を深め、
平城宮跡の国有化実現に功績を残す。

印名は「龍華庵主」 「不染」 「薬師大支」 「大基凝胤」 など

藤井誡堂

藤井誡堂(ふじい かいどう、1898年(明治31)~1984年(昭和59))
大徳寺515世管長、大徳芳春院二十二世、大徳寺塔頭三玄院住職

戦後より大徳寺の復興に瑞巌、雲窓らと共に尽力を示す。
特に茶陶に深い造詣を持ち、京焼陶工を指導して、江戸時代の紫野焼復興に功績を示す。
自作の茶碗、茶杓、茶掛書も数多く製作、茶席では大徳寺歴代管長の中でも人気の高いひとり。

印名は「誡堂」 「龍寶」(龍宝) 「露堂〃」 「麻弎斤」(「麻三斤」) など

白隠慧鶴

白隠慧鶴(はくいん えいかく、1685年(貞享2)~1768年(明和5))
駿河国原宿(静岡県沼津市)出身。本名は慧鶴(法名)、白隠(道号)

長沢某家の三男として生まれたが、15歳の頃に地元の松蔭寺単嶺祖伝の下に出家。
その後、清水の禅叢寺に参禅したのち諸国を遊学し、越後高田の英巌寺性徹師の下で悟りを開く。
以後も遊方を続け、信濃国飯山の道鏡慧端の下で大悟して、その法嗣となる。
1716年に、地元松蔭寺に戻り、駿河を中心に臨済宗の復興に力を注ぎその布教活動に尽力。
1763年に、三島竜沢寺を中興開山するなど臨済宗中興の祖として後年に名を残す。
禅画、墨蹟をよく残すほか、代表著書に「坐禅和讃」などを残す。

印名は「白隠」「慧鶴」「慧鶴之章」「臨済正宗」「顧鑑咦」「龍徳先天」など

西田幾多郎

(にしだ きたろう、明治3年(1870年5月19日)~昭和20年(1945)6月7日 76才没)
石川県かほく市森(旧宇ノ気町森)に生まれる。日本を代表する哲学者。

1894年、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒業。
1895年、石川県能登尋常中学校七尾分校教諭、得田寿美と結婚(5月)。
最も著名な著書、『善の研究』は、旧制高等学校の生徒にとって必読書であった。

西田幾多郎が散策した琵琶湖疎水沿いの道は「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれている。

1909年、学習院教授、日本大学講師に就任。
1910年、豊山大学(現・大正大学)講師、京都帝国大学文科大学助教授。
1911年、真宗大谷大学(現・大谷大学)講師。
1912年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)講師。
1913年、京都帝国大学文科大学教授、文学博士。
1914年、宗教学講座担当を免じ、哲学、哲学史第一講座担任を命じられる。

帝国学士院会員、京都帝国大学名誉教授、文化勲章受章。京都学派の創始者。

座禅修行によって培われた強靭な精神力が掘り起こす深みは、
文献学者に堕した「哲学学者」への痛烈なアンチテーゼ。

夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年(1867年2月9日)~大正5年(1916)12月9日 50才没)
江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。本名、金之助。
森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。俳号は愚陀仏。

漢学私塾二松学舎に入学する。
21歳の時、第一高等中学校英文科入学。
学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。
1889年、正岡子規と出会う。この頃に初めて漱石という号を使う。
「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、漱石はこれを譲り受けている。
1890年、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。
大学卒業後、高等師範学校に勤める。 その後、初期の肺結核と診断される。

1900年、文部省より英文学研究のため英国留学を命ぜられる。
メレディスやディケンズをよく読み、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家の
ウィリアム・クレイグの個人教授を受けたり、『文学論』の研究にいそしんだりする。

1903年、帰国後は一高、東京帝国大学講師。
1905年、「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を発表、連載を始める。
これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』を書く。
1907年、朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる。
『虞美人草』『三四郎』を掲載。
「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。

夏目漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字、造語等言葉遊びの多用が見られる。
「新陳代謝」、「反射」、「無意識」、「価値」、「電力」、「肩が凝る」等は夏目漱石の造語である。

高浜虚子

高浜 虚子(たかはま きょし、明治7年(1874)2月22日~昭和34年(1959)4月8日 85才没)
愛媛県松山市長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の4男として生まれた。
本名は高濱 清(たかはま きよし)

1888年、伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学し、
正岡子規に兄事し俳句を教わる。
1891年、子規より虚子の号を受ける。

1897年、柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほとゝぎす」に参加。
翌年、虚子がこれを引き継ぎ東京に移転し俳句だけでなく、
和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石なども寄稿している。
「ホトトギス」からは飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかしなどを
輩出している。
1902年、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭している。

1910年、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住。以来、亡くなるまでの50年間をここで過ごした。
1913年、俳壇に復帰。
1954年、文化勲章受章。
2000年、長野県小諸市に小諸高浜虚子記念館が開館。
同年、兵庫県芦屋市に・虚子記念文学館が開館。