梁川星巌

梁川星巌(やながわ せいげん、1782年(天明2)~1858年(安政5))
岐阜県出身、本名は卯、通称は新十郎

15歳の頃江戸に上がり、古賀精里や山本北山の門に入り漢詩を学ぶ。
その後(梁川)仁蘭と結婚し、夫婦共に20年間諸国を行脚しながら各地に歌を残す。
江戸に戻ると、神田に漢詩塾「玉池吟社」を建て多くの優秀な門下を出した。
江戸後期を代表する漢詩家として有名。

印名は「星巌畫圖」(「星巌画図」) 「老龍」 「夏軒」 「梁孟緯印」 「公圓」(「公円」)
「梁氏公圓」(「梁氏公円」) 「聊逍遥」 「鴨沂小隠」 「不了工夫架上書」 「香巌」 「老龍」

山田方谷

山田方谷(やまだ ほうこく、1805年(文化2)~1877年(明治10))

5歳の頃から新見藩儒丸川松隠に学び、朱子学を修めて幼少時より詩文に秀でる。
その後23歳~25の頃に、2度京都に遊学して寺島白鹿に師事。
帰郷後は、松山藩校有終館教授に就任。
更に3度目の京都遊学にて、陽明学を学び傾倒、
30歳の頃には江戸に遊学して昌平坂学問所の佐藤一斎に師事。
帰郷後は、藩校での指導の傍ら34歳の頃に私塾「牛麓舎」を開いて門下を育てる。
また松山藩藩軍奉行、年寄役助勤、元締などを歴任して藩政に尽力を尽くした。

印名は「土木形骸」 「山田球印」 「山球印」 「琳卿」 「窓琳卿」 など

山岡銕舟

山岡銕舟(やまおか てっしゅう、1836年(天保7)~1888年(明治21))
江戸出身、本名は高歩、通称は小野鐡太郎

初め槍術の山岡静山(高橋泥舟の兄)の門に入り武芸を学ぶ。
静山没後衛、妹の婿養子に向かえられ、山岡姓となる。
その後、徳川慶喜将軍に仕え、護衛などを任され活躍。
明治維新後は、新政府の政治家として茨城県参事などを歴任。
また明治天皇の教育係として日本の近代化に大きく貢献、影響を与えた。

書を多く残しており、勝海舟・高橋泥舟とともに「幕末三舟」と称されることは有名。

印名は「高歩之印」「山岡高印」「銕舟」「鐡舟」「鐡舟居士」「藤原高歩」「養浩」「曠野号銕舟」など

山内容堂

山内容堂(やまうち ようどう、1827年(文政10)~1872年(明治5))
土佐国(高知県)出身、本名は豊信。土佐藩15代藩主

12代藩主山内豊資の弟、山内豊著の長男として高知城内で生まれる。
元々分家筋で、藩主継承とは離れた立場であったが、13代豊熈(豊資長男)、14代(豊資次男)が
相次いで急死したために1848年に15代藩主となる。
藩主に就任すると、革新派の吉田東洋を重用し福井藩主の松平春嶽、宇和島藩主の伊達宗城、
薩摩藩主の島津斉彬と共に、幕政にも積極的に参加し、
老中阿部正弘に幕政改革を進言するなど、彼らと共に「幕末の四賢侯」と称される。
しかし阿部正弘が没すると、彦根藩井伊直弼と世継問題で対立し、安政の大獄により
隠居、謹慎処分を受ける。
幕末期には徳川慶喜を擁立したままの新政府の実現を目論んだが、大政奉還を向かえ、
明治維新後は内国事務総裁に就任(1869年に辞職)、以降は酒と詩文を好み自らを「鯨海酔候」と揶揄した。

印名は「借庵光生」など

山内一豊

山内一豊(やまうち かずとよ、1546年(天文15)~1605年(慶長10))
尾張国(愛知県出身)。土佐藩初代藩主

岩倉城家老の但馬守盛豊の次男として生まれる。
織田信長に仕え、名馬を買い揃えるなど(安土馬揃え)功績により
近江長浜城、遠江掛川城の城主になるなど活躍。
信長没後は豊臣秀吉、徳川家康と時の天下人に就き秀吉朝鮮出兵の際は、京を守るなど重役を似ない
家康時には反家康派の石田光成の情報を即座に知らせ難を逃れるなどの貢献を称えられ
土佐国(藩)を任されるようになった。

柳田泰雲

柳田泰雲(やなぎだ たいうん、1902年(明治35)~1990年(平成2))
東京都出身、本名は伊秀(これひで)

父に柳田泰麓、祖父に柳田正斎という江戸時代後期からつづく書家の家に生まれる。
幼少期より薫陶を受け、1927年日本書道作振会展で最高賞(文部大臣賞)を受賞する。
これを機に、泰麓の後継者になる決意を志して更なる研鑽を積む。
その後、31年には東方書道会の結成に参加し、57年には現代書道20人展の企画を創案、
同展の中心的な立場となり, 第1会展より連続して出品を続けた。
また、学習院の創設や読売書法会の創設にも参加し、現代書道界に多大な貢献を示した。

当初より楷書を極めることにおいて、すべての書体に通ずるとした考えを持っており、
専ら楷書の研究を長年続け、後年に隷書、草書、行書、篆刻へと書風を広げることに成功。
伝統的な書風を継承する一方で、現代的な自由な書風を展開し高い評価を得た。

落款名は「泰雲」「瀬碧山房」など

森鷗外

森 鷗外(もりおうがい、文久2年(1862年2月17日)~大正11年(1922)7月9日 61才没)
本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。
夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。

代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家の嫡男として、
幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読する。

1867年、村田久兵衛に論語を学ぶ。
1868年、米原綱善に孟子を学ぶ。
1870年、五経、オランダ語を学ぶ。
1872年、10歳で父と上京。向島曳舟通りに転居。
10月、ドイツ語習得のため、本郷の進文学社(私塾)に入学する。
1873年、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学。
1881年、東京大学医学部を卒業。父 森静男の経営する南足立郡千住町の橘井堂医院に転居。
9月、読売新聞に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。
12月、東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医の副の任務につく。

1884年、陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を命じられる。
ライプツィヒ大学でホフマン教授などに学ぶ。『ビイルの利尿作用に就いて』の研究を始める。
その後、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンに渡る。
1890年、『医事新論』を創刊。『国民之友』に「舞姫」を発表。
8月、『しからみ草紙』に「うたかたの記」を発表。
『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを執筆。

陸軍軍医総監(中将相当)・正四位・勲二等・功三級・医学博士・文学博士。
東京美術学校専修科美術解剖学講師、慶應義塾大学の文学科顧問
帝室博物館(東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館)総長、
帝国美術院(現日本芸術院)初代院長などを歴任。

島根県鹿足郡に森鴎外記念館がある。

本居宣長

本居宣長(もとおり のりなが、1730年(享保15)~1801年(享和元))
三重県出身。本名は小津冨之助のち小津英貞のち本居宣長

松阪の木綿商小津家の次男として生まれる。
兄が早死であった為、22歳のときに家督を襲名する。
しかし家業の経営が上手くいかず、1752年に京都で医者を目指し朱子学者・城景山に師事。
荻生徂徠の学問に私淑して、国学に傾倒するようになる(この頃に本居宣長と改姓・改名している)。
57年には松阪に帰り医者を開業する傍ら、国学研究を進め、63年にはかねてより私淑していた
賀茂真淵に本格的に入門、以降、古事記の研究に没頭。
35年という歳月をかけて古事記の注釈である「古事記伝(全44巻)」を98年に完成させている。
源氏物語の注解「源氏物語玉の小節」などを残しており、江戸中期~後期を代表する国学者として
名を残している。

印名は「鈴屋之印」など

宮本武蔵

宮本武蔵(みやもと むさし、1584年(天正14)~1645年(正保2))
兵庫県高砂市出身。本名は藤原玄信、辨助(弁助)、弁之助

幼い頃より剣技を磨き、13歳にして播磨平福の新当流有馬喜兵衛と戦い打ち勝つ。
以後、剣技上達を一筋に諸国を周遊して更なる向上を目指す。
29才の頃、九州舟島(巌流島)において佐々木小次郎と決闘する間、六十余度の勝負も負けたことが
なかったといわれる。
また、それ以降は島原の乱に唐津藩として参戦するなど活躍を示し、
1640年には熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移り、五輪書、兵道鏡、独行道などを
書き上げるなど兵法者としての一面を見せるほか、書画、彫刻、工芸品にも優れた作品を残している。

印名は「武蔵」「二天」など

正岡子規

正岡 子規(まさおか しき、慶応3年9月17日(1867年10月14日)~明治35年(1902)9月19日 34才没)
伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、八重の長男として生まれる。
名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。

1888年、第一高等中学校予科卒業。 1890年、第一高等中学校本科卒業。
在学中、夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉、寺石正路などが同級。俳句を作り始める。
1892年、日本新聞社入社。
1895年、日清戦争に記者として従軍する。
1896年、子規庵で句会。
1898年、子規庵で歌会。

俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、
近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。

芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って蕪村のように
忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。
また 十九世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、
俳句における新たな詩情を開拓するに至った。

「まり投げて見たき広場や春の草 」
「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと
野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、
文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。
これらのことが評価され正岡子規は2002年、野球殿堂入りを果たした。

俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に創作活動し、
日本の近代文学に多大な影響を及ぼす明治時代を代表する文学者の一人。
死を迎えるまでの6年数ヶ月間は結核を患った。

愛媛県に松山市立子規記念博物館がある。