織田信長

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年(1534年6月23日)~天正10年(1582年6月21日) 49才没)
日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、世に多大な影響を残した武将であり、尾張国の戦国大名であり、政治家である。別名、吉法師、三郎、第六天魔王、うつけ、赤鬼。

応仁の乱後、朝廷や幕府の力は衰えていたが、権威はまだあり、それをかりて全国を号令しようとする戦国大名は数多かった。そして、それに一番最初に成功したのが織田信長である。

信長は、桶狭間で、今川義元を討ち取り、三河の徳川家康と同盟をぶ。
その後、東のことは家康にまかせ、自分は松永久秀に殺された前将軍足利義輝の弟義昭を奉じて
都に入り、これを将軍にした。
信長は近江の浅井氏、越前の朝倉氏を滅ぼし、また仏の権威を盾に、
私欲をむさぼる比叡山の僧兵を焼き討ちにした。
1573年には、将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした。

信長は天下布武への道へ進みだす。
1575年の長篠の戦いで武田勝頼に大勝し、翌年近江に安土城を建てた。
四年後、大阪にあった本願寺を屈服させ、畿内を平定した。
1582年、甲斐の武田氏を滅ぼし、中部地方の大部分を支配下においた。

既存の権威や勢力の否定、家柄門地によらない人材登用、
火縄銃の活用などを通して戦国時代を終結へと導いた。

しかし、中国地方に足を伸ばそうとしたとき、配下の明智光秀が謀反(本能寺の変)、自害した。

伊藤東涯

伊藤東涯(いとう とうがい、1670年(寛文10)~1736年(元文元年))
京都出身。師は伊藤仁斎

江戸中期の儒学者として有名な伊藤仁斎の長男。
父が創始した古義学を受け継ぎ、父の没後、古義学派の普及にに務め「孟子古義」などの著書を刊行。
父の学説では朱子学や仏教的表現が残存していたが、東涯はこれらを完全に排除し
道徳実践の基準として、客観的な社会秩序を重視した新たな学説を唱えた。

印名は「元蔵」 「元蔵氏」 「東涯精舎」 「原蔵」 「原蔵氏」 「慥二斎」 「家世詩書」 「時還読我書」
「玩易清課」 「伊藤長胤」 「四海男皆兄弟」 「盈二一水」 など

新井白蛾

新井白蛾(あらい はくが、1725年(享保10)~1792(寛政4))
加賀出身。本名は祐登。通称は織部。

江戸中期から後期にかけて活躍した儒学者、易学者で易学中興の祖。
始めは、江戸に出て菅野兼山に儒学や漢詩を学んだ後、22歳にして独立して神田で講じていたが
独自に易学を研究して、大家となる。
晩年は加賀藩より藩候として招かれ藩校等で儒学を教えた。
書のほか、趣味として和歌をよく残したとされている。

印名は「源祐登印」 「祐登」 「白蛾」 「字曰謙吉」 など

秋山玉山

秋山玉山(あきやま ぎょくざん、1702年(元禄15)~1763年(宝暦13))
肥後国(熊本県)出身、本名は(旧姓は中山)、定政、儀。

19歳の頃肥後藩細川家の儒官となって、その後藩命により江戸の昌平坂学問所にて
林鳳岡らに漢詩、文学などを学ぶ。
帰郷後は学校の必要を唱えて運動を起こし、藩主細川重賢のとき藩校「時習館」を建設し
教授として藩士の教育に尽力。

落款名は「弌字子羽」「原儀私印」「源儀之印」など

小笠原長生

小笠原長生(おがさわら ながなり、1867年(慶応3)~1958年(昭和33))
佐賀県出身

佐賀唐津藩主小笠原壱岐守長行の子として生まれる。
1880年に学習院に学び、更に84年より海軍兵学校、次いで海軍大学校に入学して入軍。
89年に海軍少尉となる。
1894年~95年には日清戦争に従軍、黄海海戦等に参加したが、文才に長け
戦後に戦記をまとめた「海戦日録」によって、その才が高く評価される。
以降海軍戦記などの編纂に携わるようになる。
また、当時の司令長官東郷平八郎によって、学習院御用掛に推薦、学習院院長でもあった
乃木希典からも強い信頼を得て、14年の東宮御所設立の際には皇太子(昭和天皇)の教育係も務めた。

印名は「臣長生印」「鳳翼勝友」など

一休宗純

(いっきゅう そうじゅん、1394年(応永元)~1481年(文明3))
本名は千菊丸のち周建のち宗純(順)。
号は一休、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)など
第47世大徳寺住持。京都出身

後小松天皇の落胤とされ、幼少期に安国寺に預けられ
像外集鑑の下で修行を重ねる。
このときより、幼名千菊丸を捨てて、師より周建と名付けられる。
また早くから漢詩など文学に秀でていたとされる。
更に、謙翁宗為ついで大徳寺の高僧華叟宗曇について修行し、
謙翁から宗純の諱を、また華叟から一休の号を授けられる。
1474年には、後土御門天皇の命により、大徳寺大47世住持に就任。
応仁の乱で被害を受けた寺の再建に尽力したとされる。

晩年は京都田辺(現京田辺市)の酬恩庵(通称:一休寺)に隠居して、
詩、狂歌、書などを趣味として暮らした。

「墨蹟」が重文指定。

印名は「休」 「弌休」 など

秋月種樹

秋月種樹(あきづき たねあつ、1833年(天保4)~1904年(明治37))
日向国(宮崎県)出身。

日向国高鍋藩藩主の秋月種任の三男として生まれる。
安井息軒らに儒学、漢学を学び、幕末には昌平学(昌平坂学問所=幕府の学問所)にて学問奉行となり
将軍侍読、若年寄なども務めたが、維新後は明治政府に出仕して
公議所議長・左院少議官・元老院議官・貴族院議員などを歴任した。

落款名は「焼華種樹」「壱桂吱古香」「古香」「詩画一律」など

大塩平八郎

大塩平八郎(おおしお へいはちろう、1793年(寛政5)~1837年(天保8))
大坂出身。本名は後素

家塾洗心洞で門下を育成後、天保の飢饉により民衆救済活動(大塩の乱)を起こすが、
失敗し、40日間の逃亡、隠匿生活ののち自害する。
享年46歳。

尚、「洗心洞」は彼が自宅で開いた私塾名である。

印名は「源後素」 「大塩後素」 「大塩之印」 「浪華法曹」(「浪花法曹」) 「洗心洞主人」
「聖朝吏隠」 「慎独」 「洗心洞図書記」 など

石川啄木

石川 啄木(いしかわたくぼく、明治19年(1886)2月20日~明治45年(1912)4月13日 27才没)
岩手県南岩手郡、曹洞宗日照山常光寺の住職であった石川一禎の長子として生まれる。
本名は、石川 一(はじめ)。

中学時代に、与謝野晶子らの短歌に傾倒し、文学への志を抱く。
短歌の会である“白羊会”を結成する。

1903年、結核の発病もあり、故郷に帰る。
同年、『岩手日報』に評論を連載。『明星』に再び短歌を発表。
執筆に啄木のペンネームを使い始め、啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目される。

『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。
三行書の歌集『一握の砂』を出版、歌壇内外から注目される。

代表作に、歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』。

岩手県盛岡市に石川啄木記念館

安積艮斎

安積艮斎(あさか ごんさい、1790年(寛政2)~1860年(万延元))
岩代国安積群郡山(福島県郡山市)出身。

幼少時より、学問に興味を持ち、藩校などで詩文など勤勉に励んでいた。
16歳の頃上京して、佐藤一斎ついで幕府御用掛けの儒学者林述斎の門下となる。
その後、江戸神田の駿河台にて、私塾「見山楼」を起こす。
その後の著書「艮斎文略」にて一躍名を馳せ、43歳の頃には、郷里の二本松藩の儒者として
任命を受け帰国。さらに晩年には、幕府からも儒者としての任命を受けて、
昌平学(幕府の学問所)の教授なども勤めた。
また、この間、渡辺崋山ら蘭学者とも親交を厚くしており、西洋学や翻訳にも長けた学者として有名。
ペリー来航時など、初期の外交にも活躍を示した。

門下は、私塾と昌平学教授時代をあわせ2000人以上とされており、
中村敬宇、吉田松陰、高杉晋作らをはじめ多くの幕末著名人が艮斎の学識をたより入門している。