谷文晁

谷文晁(たに ぶんちょう、1763年(宝暦13)~1840年(天保11))
江戸(東京都)出身。本名は正安

徳川田安家の家臣で、漢詩家の谷麗谷の子として生まれる。
幼少期より、狩野派の画家、加藤文麗に画を学び、その後、渡辺玄対に師事。

さらに各地を巡遊、大阪の釧雲泉、長崎の張秋谷に学んで南宋、北宋の中国画を修得。
また鈴木芙蓉の作品に私淑するなど、古画の模写を基本としながらも
蘭画の技法なども取り入れた、文晁様式の絵画世界を確立する。
その後、父の後を継いで、田安家に出仕し図録集「集古十種」の編纂に従事する。
また古画の模写などを担当。

画塾「写山櫻」を開いて多くの門下を集め、その中でも渡辺崋山、椿椿山、立原杏所など
優れた南画家を輩出、関東随一の文人画家としてその名を轟かせた。

代表作に「公余探勝図(重文指定)」、「木村蒹葭堂像(重文指定)」など

印名は「文晁」「文晁画印」「谷文晁印」「谷氏文晁」「寫山行楼」「文伍氏」「無二道人」
「一如」「無二」「無弐」「近江谷氏」「畫學斎」(「画学斎」)「畫學斎印」(「画学斎印」)
「蜨仙」「畫仙」(「画仙」)「樂山」「樂山叟」「七十五翁」「七十六翁」「蜨叟」など

田中頼璋

田中頼璋(たなか らいしょう、1868年(明治2年)~1940年(昭和15))
島根県出身。本名は大治郎。字は公敬。号は初め、豊文のち頼章、頼璋
円山派

初め森寛斎に師事し、その後上京し川端玉章に学ぶ。
主に山水画を得意とし、トラを描いた傑作で知られる。
文展が開催される以前から中央画壇で活躍。
同年文展が開始されると、一躍旧派の代表画家として注目された。
日展の前身である帝国美術院展覧会委員を務めるなど旧派の重鎮として活躍した。
また後年は、川端画学校の教授として後進の育成にも力を注いだ。
大正~昭和初期の日本画壇の重鎮的存在であった。

印名は「頼璋」 「田頼璋印」 「字公敬」 「字公敬印」 「字曰公敬」 など

田中訥言

田中訥言(たなか とつげん、1767年(明和4)~1823年(文政6))
名古屋の人。本名は敏

復興大和絵の祖。
石田幽汀、土佐光貞に師事するが、古典的な大和絵を好み、また有職故実にも精通し、
今までの各派の長所を取り入れた復興大和絵を創始する。

主に華麗な花鳥画を得意とする。
門下に浮田 一恵、渡辺清など。訥言や彼に従事する門下は、復興大和絵派と総称される。

代表作「四季花図」が重文に指定されている。

印名は「敏之印」「訥言」「訥言之印」「痴翁」「訥言陳印」「訥言陳人」「號得中」「虎頭」「田痴之印」など

田中柏陰

田中柏陰 (たなかはくいん 慶応2年(1866)~昭和9年(1934) 69才没)
静岡生まれ。名は啓三郎。字は叔明。別号に静麓、孤立、柏舎主人、空相居士。

17歳のとき京都に出て田能村直入に師事。
田能村竹田系の南画の画風を受け継ぎ、濃彩の山水画を得意とした。

田中柏陰を名乗り、画塾・画禅堂を開き多くの弟子を教授した。
のち関西南画界の重鎮となった。
竹田系統鑑定家の第一人者。

田中一村

田中一村(たなか いっそん、1908年(明治41)~1977年(昭和52))
栃木県出身。本名は孝。通称は(自称)飢駆我。東京美術学校中退

幼少期より、神童と称されるほど画力に秀で、蕪村、木米などの南画を模倣するに至る。
1926年、東京美術学校に入学、この頃の同期には橋本明治、東山魁夷など
後の巨匠と呼ばれる画家たちがいたが、一村は3ヶ月で病のために退学。
その後も病気や経済的な貧しさの為、中央画壇とは離れ、
南画のほか日本画を描き生計を立てていたが、なかなか認めてもらえずにいた。
戦後47年になり、ようやく川端青龍社展にて初入選となる(この頃から一村号を使用し始める)。
しかし、川端と対立し青龍社からも脱退。

55年、奄美大島のスケッチ旅行がきっかけとなり、以降奄美に在住。
大島紬の染色工場で働きながら同地の風景画などを残した。
生涯無名作家であったが、「奄美の日本画家」としてテレビなどで報道されて以来、
独特の画風と作品が見直されている。

印名は「米邨」(「米村」) 「一村」 「孝印」 「十四童孝」 など

田中以知庵

田中以知庵(たなか いちあん、1896年(明治26)~1958年(昭和33))
東京都出身。本名は兼次郎。号は咄哉州、以知庵、一庵

上原古年、のち松本楓湖に師事。
巽画会、紅児会などに出品、速水御舟などともよく交友する。
1929年、小室翠雲の推薦により、日本南画院同人となる。
その後は同展を中心に日展などでも活躍した。

他に、釈宗活禅師に禅を学び、1912年には禅号として咄哉(州)を拝受し、
南画研究と禅修行の為に、朝鮮半島に渡るなど、求道的な一面をみせる。
作品では詩情に溢れた花鳥、風景画を展開した。

印名は「一菴」(「一庵」) 「以知庵」 「咄哉州」 など

立石春美

立石春美(たていし はるよし、1904年(明治36)~1996年(平成8))
佐賀県出身。

上京後、鏑木清方の知遇を得て、1929年に一番弟子の伊東深水に入門する。
翌年、第11回帝展にて初入選となり、以降帝展、新文展と官展系に出品を重ねる。

戦後からは日展に出品。
46年、第1回日展で特選、51年、第7回日展にて特選と朝倉賞を受賞。

師、深水の流麗な美人画の描法をよく継承しており、深水没後(1972年没)も独自に研究を重ねて
奥ゆかしさの中に気品、節度を併せ持った日本女性の典型的な美を表現した。

印名は「春美」 「春」 など

田近竹邨

田近竹邨(たじか ちくそん、1864年(元治元)~1922年(大正11))
農後竹田の出身。本名は逸または岩彦。

初め、淵野桂僊に師事し、その後、京都に出て田能村直入に学ぶ。
南画を得意とし、文展において5回連続で褒章を受賞する。
明治大正を代表する南画家として活躍した。
直入等の呼びかけで設立された日本南画協会の幹事となる。
さらに後年に、小室翠雲、山田介堂らと日本南画院を設立し、同人として活躍。
明治期の京都画壇の南画界を担う作家として知られた。

文展での受賞歴も多く、池田桂仙、山田介堂とともに京都南画界の三元老と称された。

印名は「逸」 「田逸」 「田逸之印」 「田近逸印」 「竹田邨民」(「竹田村人」)
「田逸知印」 「無逸」(「无逸」) 「書竹生涯」 「竹邨」 「竹丈」 「竹史」 「水竹邨舎珍賞」
「心逸」 「成友此君」 「鳳来」 「世美人」 「白沙」 「一樂荘」(「一楽荘」) 「人生一樂」
「冗字因縁」 「陽春百雪」 「青士」 「詩酒陶情」 「淡白生涯」 「臣逸」 「管領風煙」
「大時青林翠竹」 「青垣洋書房」 「有林之居」 「有心大平」 「古士愚心」 「天心」 「田舎主人」
「竹田邨民」 「古之人古之人」 「煙雨楼」 「山中人」 「沙明竹翠」 「沙明竹翠邨舎主人」
「詩癖茶顚」(「詩癖茶顛」) など

立原杏所

立原杏所(たちはら きょうしょ、1785年(天明5)~1839年(天保10))
水戸藩(茨城県)出身。本名は任、字は遠

水戸藩士で水戸彰考館総裁であった立原翠軒の子として生まれる。
幼少の頃より父や画家の林十江のもとで画を修行、その後、父の隠居に伴い家督を継いで
7代藩主徳川治紀、8代斉脩、9代斉昭の3代に出仕。
文化9年に江戸に出府した際に当時の関東南画の巨匠であった谷文晁の門に入り、
さらに画の研鑽を深め中国古画の研究にも長じて、沈南頻様式の花鳥画、山水画を得意として
渡辺崋山、椿椿山らとともに文晁門下の四天王と称された。

帰郷後も斉脩、斉昭の命により多数の古画の模写を手掛け、画のほかにも篆刻にも優れた。

落款名は「杏所立原任」「翆軒題」など

印名は「立原任印」 「立原任記」 「立原任鍳」 「立原萬印信」 「生及人」 「杏所」
「杏所漫士」 「翆軒老人」 「比君堂」 「香案小史」 「立原氏字遠」など

田崎草雲

田崎草雲(たざき そううん、1815年(文化12)~1898年(明治31))
江戸出身。本名は芸または、明義。金井烏洲・川崎梅翁・谷文晁・春木南溟に師事。

幕末~明治に活躍した南画家として有名。
初め、足利藩の藩士または、お抱え絵師として活躍、尊皇、勤皇を掲げていた。
維新後は画業に専念し、日本の古画や中国の書風を研究し、独自の画風を樹立する。
特に、草雲の南画山水は、スケールの大きさと繊細さの調和がすばらしく、国内外で評価された。

1890(明治23)帝室技芸員拝命。
1893(明治26)シカゴ万博名誉大賞受賞。

門下には、小室翠雲。代表作に「寒山行旅図」等

印名は「帝室技藝」(「帝室技芸」) 「田氏」 「芸」(「艸云」) 「田芸」 「田崎艸雲印」
「艸雲」 「艸雲頑仙」 「白石生」 「蓮仙畫屋」(「蓮仙画屋」) 「梅溪書室」(「梅渓書室」)
「田艸情玩」 「田芸清玩」 「田艸云書印」 「草雲子」 「白石山房」 「白石生」 「草山人」
「白石子」 「草雲眞逸」 「蒼古」 「小洞定貝」 「画中人」 「蒼古」 「硯田農夫」 「蓮袋画屋」 など