竹久夢二

竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、明治17年(1884年)9月16日~昭和9年(1934年)9月1日 49才没)
岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に生まれる。
本名は茂次郎(もじろう)。早稲田実業専攻科中退。

藤島武二に私淑し、新聞・雑誌に挿絵を描く。
1905年、友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の「直言」にコマ絵が初掲載される。
「中学世界」に『筒井筒』が第一賞入選、このとき初めて夢二を名乗る。

1909年、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなる。
1914年、日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店。

叙情的ないわゆる夢二式美人画で、大正浪漫を代表する画家。
児童雑誌や詩文の挿絵、書籍の装丁、
広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、
日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりとも言える。

恋愛遍歴についても数々の評伝があり、
自身の日記や手紙などで語られる愛の言葉は、後世の多くの創作の題材ともなっている。

夢二郷土美術館(岡山市)、夢二郷土美術館 分館(夢二生家・少年山荘)、
竹久夢二伊香保記念館(群馬県渋川市伊香保町)、
竹久夢二美術館(東京都文京区)、
金沢湯涌夢二館(石川県金沢市)

竹内栖鳳

竹内栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日(1864年12月20日)~昭和17年(1942)8月23日 78才没)
京都に生まれ。

幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。
1882年には私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳と都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟四名を指す)の筆頭と呼ばれるようになる。

23歳で結婚し、これを機に絵師として独立する。
49歳の時(1913年)に「帝室技芸員」に推挙されることで、
名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。

大画面を破綻なくまとめる確実な技量のみならず、
その筆法には悠然たる迫力を備えており、近代を代表する大家であることは異論が無い。
弟子の育成にも力を入れ、画塾「竹杖会」を主宰。
上村松園や西山翠嶂をはじめ、西村五雲、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨ら多数輩出している。

京都市右京区に霞中庵 竹内栖鳳記念館があった。

滝和亭

滝和亭(たき かてい、1830年(文政13)~1901年(明治34))
江戸出身。本名は田中長吉のち邦之助のち滝謙。字は子直。号は水山、翠山、蘭田

幼少期より画に興味を持ち、荒木寛快、片桐桐陰らに師事。南北宋の画風を学ぶ。
16歳の頃(1846年)には大岡雲峰より南画・四条派の写実技法を師事する。
1849年、坂本浩然、田口霞村の両師に師事して漢詩、書などにも研鑽を示す。
師大岡雲峰没後は、1850年より長崎に遊学して日高鉄翁の下で長崎南画(鉄翁流)を修得。
江戸に帰郷後、1873年のウィーン万国博覧会、77年の第1回内国勧業博覧会(花紋3等賞)、
81年第2回内国勧業博覧会(妙技2等賞)、93年シカゴ万国博覧会(銅牌)、
95年第3回内国勧業博覧会(妙技2等賞)などその描写力が国内外で高く評価される。

86年の皇居造営の際に揮毛、93年には帝室技芸員拝命など活躍を示す。

南画の花鳥、人物図が主となるが彩色、墨色を問わず細部まで緻密な表現を展開して
写実的で濃麗な画風が特徴的。明治34年72歳にて没す。

印名は「和亭居士」 「和亭主人」 「蘭田」 「蘭田生」 「蘭田香者」 「謙」 「臣謙和印」
「和亭」 「飛華入硯池」 「茗渓漁長」 「家住茶渓上」 「一江秋月」 「紅雪香處」 「蒼古」
「字子直號蘭田」 「日思君十二時」 「造花為師」 「括澹自如」 「我伴梅華伴我」 など

高山辰雄

高山辰雄(たかやま たつお、明治45年(1912)6月26日~平成19年(2007)9月14日 96才没)
大分市に生まれる。

東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。
在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事。
第2回日展に裸婦2人を描いた『浴室』を出品し特選。
1949年には日展に『少女』を出品、特選となる。
この頃から独自の幻想的な画風が定着する。

日展理事長、日展常務理事、日本芸術院会員、文化功労者
70歳の時には文化勲章を受章。

高島北海

高島 北海(たかしま ほっかい、嘉永3年9月26日(1850年10月31日)~昭和6年(1931年)1月10日 80才没)
長州阿武郡(現・山口県萩市)出身、萩藩の藩医の子(幼名:和三郎)として生まれる。本名は、得三(とくぞう)。

大庭 学僊(おおば がくせん)に師事。
1886年のフランス東部美術展に日本画を出品、現地の高い評価を受けた。
47歳で公職を辞して郷里の長府(現・下関市)に隠棲するが、
52歳で再び上京、雅号を「北海」として中央画壇での活動を本格的に始める。

明治新政府の技官としての半生の上に、植物学の深い造詣を基礎とし、
南画に写生の技法を加えた清新な山岳風景画を描いた。

高橋草坪

高橋草坪(たかはし そうへい、1803年(享和3)~1834年(天保5))
大分県杵築の人。本名は雨、通称は元吉、字は沢民

幼少の頃より画に興味を持ち、初め同地の画家長谷部柳園に学ぶ。
田能村竹田が杵築を訪れた際に弟子入り、行動を共にする。
師の勧めで京都など各地を外遊し浦上春琴、帆足杏雨などと親交を深め、
その後は大坂を中心として活躍するが、32歳の若さで病を患い大坂にて没。

作品は、師竹田をよく継承し、南画の秀作が残るが、早世のため遺作も少なく
「竹田が認めた幻の作家」とも言われている。

印名は「艸坪」(「草坪」) 「豆人天涯」 「雨印」 「高雨」 「小酌半醺」 など