土佐光文

土佐光文(とさ みつぶみ、1812年(文化9)~1879年(明治12))
京都出身。本名は光文 、幼名は延丸

江戸後期から明治初期の土佐派画家。 土佐光孚の次男に生まれ、兄には土佐光清がいるが土佐光禄の養子となる。
土佐派の伝統的な大和絵を修練し、禁裏絵所預かりとなり安政度内裏造営御用などに従事。
従四位下左近備前守に叙任、明治に入ると塩川文麟、中島来章らと共に如雲社を設立した。

印名は「光文」 「光文之印」 「藤原光文」 「藤光文」 「藤光文印」 「南極老人無窮之壽」 「韓水」 など

常盤大空

常盤大空(ときわ たいくう、1913年(大正2)~1983年(昭和58))
福島県出身。川端画学校卒

川端画学校卒業後は、1940年に第27回院展にて初入選となる。
以降、入選、奨励賞などを重ね、62年に日本美術院賞・大観賞を受賞する。
この頃から堅山南風に師事。
また68年に同人に推挙され、74年には院展文部大臣賞を受賞となる。

日本、中国などの風景や仏画をよく研究してオリエンタル溢れる独自の画風を展開。

印名は「大空」 「大空印」 「大」 など

徳岡神泉

徳岡神泉 (とくおか しんせん、1896-1972)
京都市上京区神泉町に生れる。本名は時次郎。

13歳頃、竹内栖鳳の画塾竹杖会に入門。京都市立美術工芸学校絵画科を経て、
1917年、京都市立絵画専門学校を卒業。
在学中より文展に応募するが落選が続き、絵専卒業頃から妙心寺などの寺に移り住み、参禅。
1919年には京都を離れて、富士山麓に住み《狂女》など鬼気ただよう作品を描いた。
この頃から「神泉」と号する。

1923年、関東大震災を機に近藤浩一路に薦められて再び京都にもどった。
大正末の神泉は、濃密な質感表現をめざした写実に進み、宋元画の研究から《芥子》などを描いている。
1915年、第6回帝展に初入選。翌年の帝展で《蓮池》が特選。
昭和期には次第に構成の単純化と装飾化へと向かい、古典絵画の荘重さを備えた画境を深めている。
戦中期にはさらに背景を省略し対象をクローズアップして象徴的に配した画面構成を模索した。
戦後その傾向をいっそう強めて、地塗りの効果をいかした絵肌にモチーフを浮かび上がらせる幽玄な作風を完成。
1957年、日本芸術院会員。1966年、文化勲章受章。

堂本元次

堂本元次(どうもと もとじ、1923年(大正12)~2010年)
京都府出身。本名は元次(もとつぐ)。京都市立絵画専門学校日本画科卒

京都市立美術工芸学校~京都市立絵画専門学校に進み画技を習得。
戦時中は出兵となり、帰国後、叔父の印象に師事し、1947年の第3回日展にて初入選する。
ついで、50年に特選を受賞、翌51年より東丘社に入りる。
以降は同社展と日展を中心に発表を続ける。
日展では52年に特選朝倉賞、60年に菊花賞と受賞を続け、63年に会員に推挙、
72年より評議員を歴任し、82年に内閣総理大臣賞を受賞。
87年には日展出品作「懸空寺」により二位本芸術院賞を受賞、日展を代表する画家となる。

制作当初は、師の印象が、晩年抽象的な画風を確立した時期でもあり、
その影響からか、元次も抽象と具象の狭間で葛藤があり、
日展は具象的な作品、東丘社展には抽象的な作品を出品する。
しかし、79年に中国を訪問し、自然に感化され以降は、基本に忠実な写実風景画を見つめなおしている。

印名は「元」「元次」など

堂本印象

(どうもと いんしょう、明治24年(1891)12月25日~昭和50年(1975)9月5日 83才没)
京都府生れ。本名:堂本三之助。

京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。
帝展初出展作「深草」が入選。
帝展第3回展では「調鞠図」で特選。
第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞。
第一級の日本画家として認められた。

京都市立絵画専門学校教授 帝室技芸員 日本芸術院会員 文化勲章受章。

私塾東丘社の主催者として、画壇の指導者としても活躍した。
堂本美術館(現:京都府立堂本印象美術館)を自らのデザインにより設立。

鑑定人・鑑定機関

ギャラリー鉄斎堂
京都市東山区新門前通東大路西入ル梅本町262
Tel:075-531-6164
http://www.tessaido.co.jp/gallery.html

富取風堂

富取風堂(とみとり ふうどう、1892年(明治25)~1983年(昭和58))
東京都出身。本名は富取次郎。

松本楓湖に師事。
同門であった今村紫紅、速水御舟、小茂田青樹らと共に赤曜会を結成する。
戦後は、主に院展に出品。1966年、第51回院展にて文部大臣賞を受賞。
師をよく継承し、大和絵風の花鳥図を得意とした。

印名は「楓堂」「風堂」「風」「富次郎印」「風堂畫印」など

日本美術院同人、評議員、千葉県文化功労者。

富田渓仙

(とみた けいせん 明治12年(1879)~昭和11年(1936) 57才没)
福岡県に生まれる。

12歳で狩野派を学ぶ。
明治29年、京都へ出て、都路華香の書生になり四条派を学ぶ。

仙崖、富岡鉄斎に師事。
文展出品作「鵜舟」などが横山大観に認められ院展へ参加。
大正4年第2回院展出品作「宇治川の巻」、昭和8年第20回院展出品作「御室の桜」などが代表作。

桜をこよなく愛した。車折神社には渓仙が寄贈した渓仙桜がある。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713
https://toobi-tocfa.or.jp/judge/

富岡鉄斎

(とみおか てっさい、天保7年(1836)1月25日~大正13年(1924)12月31日 89才没)
京都生まれ。幼名は不明。猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、
明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。
字を無倦、号を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。

耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学を学ぶ。
国学や勤王思想、漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一惠に学んだ。

「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。

彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。
80歳を過ぎてますます隆盛で、色彩感覚の溢れる傑作を描いた。
生涯を文人として貫き、その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、
梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛。
日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けている。

兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺の鉄斎美術館と、西宮市の辰馬考古資料館に多くの作品が収蔵されている。

鑑定人・鑑定機関

大阪美術倶楽部鑑定委員会
〒541-0042 大阪市中央区今橋2-4-5
TEL:06-6231-9626
http://daibi.jp/service/kantei/

寺島紫明

寺島紫明(てらしま しめい、1892年(明治25)~1975年(昭和50))
兵庫県明石市出身。本名は徳重。

伊東深水と並び名美人画家として称される。
幼少の頃から絵と詩歌、文学書に親しみ、21歳の時に鏑木清方に師事。
師のもつ情緒的な画風を受け継ぐ。
これに独自の絵画的感性を加えて、純度の高い美人画を生みだした。

昭和11年以降は関西に帰り、西宮に居を構えて芦屋など近隣の婦人たちを多く描いている。
文展・帝展所属。また奥村土牛らと九皐会に参加。
戦後は、日展審査員・参与を務める。
芸術院賞受賞。

印名は「紫明」 など

寺崎広業

寺崎広業(てらさき こうぎょう、1866年(慶応2)~1919年(大正8))
秋田県出身。慶応2年2月25日生まれ。本名は幼名が忠太郎、後に広業。字は徳郷

初め小室秀俊に狩野派を、四条派の画技を平福穂庵に学ぶ。
また、南画を菅原白龍に学び、日清戦争に従軍後、各諸派と独自の研究を取り入れる。

第1回帝展より審査員を務め、日本美術協会などで活躍、大正6年に帝室技芸員を拝命。
大正8年2月21日53歳で没する。
明治、大正を代表する画家。

印名は「騰龍」 「騰龍軒」 「騰龍軒主人」 「騰龍軒圖書」 「寺崎廣業」 「廣業印信」
「宗山」 「秋水共長天壹色」 など