狩野秀頼

狩野秀頼(かの ひでより、(不明)~1557年(弘治3))
京都出身。本名は乗信、季頼、秀頼

狩野元信の次男として生まれる。
兄に狩野宗家3代目狩野宗信、弟に同じく4代目の狩野松栄を持つ、
兄と弟2人の当主に挟まれた格好となるが、秀頼も父元信様式を継承しており、
代表作に高雄観楓図屏風六曲1隻(東京国立博物館蔵)を残し国宝に指定されている。

印名は「秀頼」

狩野芳崖

狩野芳崖(かの ほうがい、1828年(文政11)~1888年(明治21))
長州国(山口県)出身。本名は孝太郎、号は芳崖、松隣、皐隣、勝海、翠庵、等。

長府藩の御用絵師狩野晴皐の子として生まれる。
19歳の頃に上京、狩野勝川院雅信の門に入り本格的に狩野派の画技を修行。
雅信の門下の中でも、橋本雅邦とともに門下の双璧とされるほどの画力を持っていたが、
幕末~明治という不安定な時期と重なり、なかなか認めてもらえなかった。

1884年、アメリカの美術家フェノロサとの知遇を受けて、洋画と日本画を融合させた
新しい表現の絵画世界を確立。
また、若い世代の画家を養成するために総理大臣伊藤博文に東京美術学校設立を要請するなど
日本画発展に尽力を示し、同校の教授の任命も受けていたが開校を待たずにして没。
後年は橋本雅邦との関係も深い。

代表作に「悲母観音像(重文指定)」

印名は「藤原」「狩野」「雅春」「雅道」「雅道之印」「貫甫」「勝海」など

狩野探幽

狩野探幽(かの たんゆう、1602年(慶長7)~1674年(延宝2))
京都出身。鍛冶屋橋狩野派初代。本名は、幼名四郎次郎のち守信

狩野永徳の子、狩野孝信の長男として生まれる。
画を孝信及び孝信の没後は、狩野興以に学ぶ。
幼少時より類稀なる才を発揮し、11歳の頃に駿府にて徳川家康に謁見する。
その後、15歳にして御用絵師として仕える。
二条城、名古屋城、江戸城など幕府建立の城郭や大徳寺、妙心寺などの
有力寺院の障壁画・襖画を多数手掛け、また既存古画への研鑽も深く、
それらを縮小して模写(「探幽縮図」として残る) するなど狩野派中興の祖といわれる。
画家としての最高位である法印に叙されている。
また、狩野宗家とは分家して鍛冶屋橋狩野派を創始。
画業のほかにも、小堀遠州に師事して大師流の茶道や書、和歌にも秀でた。

尚、弟には尚信、安信がおり、門下にも鶴沢探山(鶴沢派を創始)をはじめ
狩野洞雲、山本素程など多くの優秀な画家を輩出している。

代表作に「二条城障壁画(重文指定)」、「探幽縮図」

印名は「藤原」 「守信」 「筆峯大居士」 「忠淵」 「守政」 「玉堂静暇」 「法印生明」 「日道」
「法眼探幽」 「探幽斎」 など

狩野休伯

狩野休伯(かの きゅうはく、1577年(天正5)~1654年(承応3))
京都出身。本名は休伯昌信のち休伯長信(休白長信)

江戸時代前期の狩野派の画家で、父に狩野松栄の4男で、兄には狩野永徳を持つ。
父、兄が没した後、徳川秀忠に仕え、徳川幕府の御用絵師として活躍を示す。
1625年に法橋に叙せられている。

風俗画を最も得意として、「花下遊楽図」(国宝指定)の筆者として名高い。

印名は「長信」「藤原」など

狩野永徳

狩野永徳(かの えいとく、1543年(天文12)~1590年(天正18))
京都出身。狩野宗家5代目、信長、秀吉のお抱え絵師。

狩野宗家4代目の狩野松栄の長男として生まれ、祖父には狩野元信を持つ。
父及び祖父より元信形式の画技を学び、織田信長に仕えて、その御用絵師として
「安土城障壁画」、「洛中洛外図屏風」、「源氏物語図屏風」などを製作するなど活躍を示す。
信長没後は、秀吉に仕えて「大阪城障壁画」などを製作。
門下に狩野山楽、海北友松。

代表作に国宝指定「洛中洛外図屏風」「唐獅子図屏風」「桧図屏風」など。
尚、後年の狩野宗家12代目狩野永徳(狩野高信)と混同されることが多く、
古永徳と称される場合もある。

印名は「州信」「藤原」「信」など

下保昭

下保昭 (かほあきら 昭和2年(1927)~
富山県砺波市に生まれ。

西山翠嶂に師事。
日展で特選や菊華賞を受賞し、昭和60年には芸術選奨文部大臣賞を受賞するが、
昭和63年に日展を脱会し独自の道を歩む。
日展脱会後は水墨画に専念し「下保昭水墨画展」や「冰雪黄山」など中国の壮大な自然を題材に独自の水墨画の世界を確立。黒を基調とした筆触で微妙な自然の変化を捉えた山水画を描く。

日本芸術大賞、第一回美術文化振興協会賞、芸術選奨文部大臣賞受賞

鏑木清方

鏑木 清方(かぶらき きよかた、明治11年(1878)8月31日~昭和47年(1972)3月2日 93才没)
近代日本の美人画家として上村松園、伊東深水と並び称せられる。人物画が多く、明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。
東京・神田に生まれ。本名は健一。

満13歳で浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門。
16歳頃から清方の父親が経営していた「やまと新聞」の挿絵を描き始め、 10代にしてプロの挿絵画家として活躍。
1901年に仲間の画家らと烏合会(うごうかい)を結成。
1916年に吉川霊華、平福百穂らと金鈴会を結成するが、清方自身はこうした会派、党派的活動には関心があまりなかったようだ。
このころから次々と作品を発表し、第1回帝展の審査員に任命される。

浮世絵の流れもくむ清方の画風は、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られる。重要文化財指定の『三遊亭円朝像』(1930年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像であるが、代表作の一つに数えられている。

神奈川県鎌倉市には鏑木清方記念美術館がある。

鹿子木孟郎

鹿子木孟郎 (かのこぎたけしろう、明治7年(1874)~昭和16年(1941) 69才没)
岡山県生まれ。号は不倒。

高等小学校卒業後、松原三五郎の天彩学舎に入学。後に小山正太郎の不同舎に入学。
1895年、文部省教員検定試験に首席合格、滋賀県尋常中学校(彦根中学校)に勤務。
1900年、渡仏し、アカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに師事した。
帰国後は京都に住み、関西美術院、京都高等工芸学校などで指導に当たる。
1904年、京都に居を定める。鹿子木室町家塾創設。
1905年、浅井忠らと関西美術院を創立。
1906年、1915年にもパリに滞在し、ローランスの愛弟子として注目された。
1918年、京都下鴨にアカデミー鹿子木下鴨家塾開設。

文展審査員、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章。

金島桂華

金島 桂華(かなしま けいか、明治25年(1892)~昭和49年(1974)9月16日 82才没)
広島県生まれ、本名は政太。平井直水、竹内栖鳳に師事。

1925年帝展で「芥子」が特選。以後1927年「鳴子九皐」、1928年「牡丹」で特選と受賞する。

写実に徹しながらも、新しい感覚と豊かな色彩による装飾性の強い花鳥画を得意とする。

京都市立美術工芸学校教諭(1930から1939)、帝展審査員、日展運営会参事、
芸術選奨文部大臣賞受賞、日本芸術院賞受賞、日本芸術院会員、
日展理事、勲三等瑞宝章受章、日展顧問、京都市文化功労賞受賞。

加藤東一

加藤東一(かとう とういち、1916年(大正5)~1996年(平成8))
岐阜県出身。東京美術学校卒。

1947年、東京美術学校卒業後、翌48年に山口 蓬春に師事。
同年、第四回日展にて初入賞を受賞し、52年特選、55年に特選・白寿賞を受賞する。
以降も日展を中心に活躍。
1970年、改組第二回日展において内閣総理大臣賞を受賞、77年に日本芸術院賞受賞。

また、日展のみならず1988~93年に、金閣寺大書院障壁画五十二面の製作を手掛ける。
1995年、文化功労者顕彰。
兄に日本画家加藤栄三氏がいる。

印名は「東」 「東一」 「東一之印」 「東弌」