清水九兵衛

清水九兵衛(きよみず きゅうべい、1922年(大正11)~2006年(平成18))
愛知県出身。本名は裕詞。号は九兵衛、7代 六兵衛。東京芸術大学鋳金科卒

在学中より義父6代 清水六兵衛の後継者として陶芸を手掛る。
卒業後は、日展で北斗賞、特選などを受賞し、審査員なども務めた。
しかし、次第に陶芸から立体造形の世界へ傾倒し、彫刻作品や空間アートなど
前衛的な作品を手掛けるようになる。
彫刻家に転身後は、各彫刻展覧会などで多数の受賞歴を持つ。
代表的なものに、76年毎日芸術賞、77年日本芸術大賞、98年中原悌二郎賞などがある。
1981年、6代六兵衛の死去(80年に没)に伴い7代 清水六兵衛を襲名。
以降、茶陶を中心とした茶碗、香炉、花瓶など用の器を製作。
一方では、陶器の世界にも斬新な美意識をつねにもち、オブジェ陶などもよく制作し、
歴代六兵衛とは違った作陶を展開した。
2000年に子息の清水柾博氏に8代 清水六兵衛を譲り、近年は再び彫刻作品を制作。
2006年7月21日永眠、享年84歳。

印名、陶印は六角印「清」 「裕詞」 「K.KIYOMIZU」 など

木内克

木内克(きのうち よし、明治25年(1892)~昭和52年(1977)茨城県水戸市出まれ。

1914年(大正3年)朝倉文夫の彫塑塾に入門。 1921年(大正10年)渡英。半年間ロンドンに滞在し、その後パリにわたる。そこでブールデルの指導を受ける。 二科展などに多数出品し、テラコッタの作品を多く残した。

代表作には『エーゲ海に捧ぐ』、『女の顔』がある。

古賀忠雄

古賀忠雄(こが ただお)
佐賀県出身。東京美術学校彫塑科卒

在学中の1929年第10回帝展にて初入選となる。以降、帝展、新文展にて入選を重ねる。
39年第3回新文展にて特選を受賞、42年には前年の第5回新文展出品作「建つ大東亜」にて
帝国芸術院賞を受賞、戦後は、日展を中心に出品を重ねるほか、当時の彫刻界発展に尽力を尽くす。

1963年に初渡欧して西洋彫刻を研究。
人物肖像、裸婦、動物などを中心にブロンズ作品、石膏作品のほか、陶器なども幅広く製作。

印名は「忠」など

北村西望

北村 西望(きたむら せいぼう、明治17年(1884)12月16日~昭和62年(1987)3月4日 104才没)
長崎県南高来郡南有馬村生まれ。 本名は、北村西望(きたむら にしも)。

1903年(明治36年) 京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)入学。1907年(明治40年) 京都市立美術工芸学校卒業後、上京し東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学。
日本を代表する美術家の1人であり、特に代表作である大作「長崎平和祈念像」は有名。

1915年(大正4年)初期の代表作「怒涛」制作。文展で二等賞に入賞し認められる。
1953年(昭和28年) 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設。
1955年(昭和30年) 5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像完成、長崎市に納品。
文化勲章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章。

故郷の長崎県島原市の島原城内には北村西望記念館がある。

石川光明

石川光明(いしかわ みつあき、1852年(嘉永5)~1913年(大正2))
江戸出身。帝室技芸員

幕府御用を務める宮彫師の家に生まれる。
父に木彫りの技法を学ぶ傍らで、絵画を狩野素川に師事。
1866年より、菊川正光に牙角彫刻を学び、明治維新以降は、木彫及び牙彫作家として独立。

1881年、第二回内国勧業博覧会では「牙彫魚籃観音」が妙技二等賞、「嵌入衝立」が二等賞。
89年、パリ万国博覧会で「嵌入芦乗達磨」が銀賞、
90年、第三回内国勧業博覧会に「木彫鷲額面」と「牙彫老夫置物」が共に
妙技二等賞を受賞するなど活躍を示す。
同年に帝室技芸員を拝命、また、同年より東京美術学校に勤務、91年には楠公銅像木型製作に従業。
他、93年シカゴ・コロンブス世界博覧会で「木彫額面観音」が優等賞、
94年第四回内国勧業博覧会で「木彫軍鶏」が妙技二等賞、
1900年にパリ万国博覧会にて「牙彫古代鷹狩置物」が金賞を受賞するなど活躍を示した。

写実的な彫刻を得意として、特に猿の牙彫に優れ、高村光雲の代表作「老猿」は
光明の影響によると所がかなり大きいといわれる。

雨宮敬子

雨宮敬子(あめのみや けいこ、1931年(昭和6)~(現在))
東京都出身。日本大学芸術学部美術科卒

彫刻家雨宮治郎の長女。
1956年、第12回日展に初入選。以降、日展を中心に作品を発表する。
58年、第1回新日展にて特選となり、以降も入選・受賞を重ねる。
85年、改組第17回展で内閣総理大臣賞を受賞。
その間、82年に第10回長野市野外彫刻賞、83年第14回中原悌二郎賞を受賞、
更に72年より新樹会展に招待出品(77年まで)、80年第1回現代女流美術展より同展連続出品、
90年には前年の日展出品作「想秋」にて日本芸術院賞を受賞、94年日本芸術院会員に就任するなど
現代女流彫刻家の第一人者として活躍を示す。

端整で自然な形態を追求し、女性像、特に裸婦像を一貫して作り続け、
外観的な女性美を表現すると共に、内面的、精神的な美を表出させることにより
清楚な作品に仕上げている。

印名は「敬子」「Keiko」など

石井鶴三

石井鶴三(いしい つるぞう、1887年(明治20)~1973年(昭和48))
東京都出身。東京美術学校彫刻科卒

祖父に南画家、鈴木鵞湖、父に石井鼎湖、兄に石井柏亭を持つ。
絵画を小山正太郎、彫刻を加藤景雲にそれぞれ学ぶ。
東京美術学校卒業後、1911年第5回文展にて初入選及び褒状を受賞。
14年より再興日本美術院展に出品、16年に同人に推挙。
以降、長年院展彫刻部の中心的な作家として出品を重ねるほか、
水彩画、版画、油彩画と絵画方面にも幅広く活動し、各画会の会員に就任。

母校東京芸術大学の教授としても後進の育成にも尽力、1950年に日本芸術院会員にも就任した。

印名、サインは「TU」 「Tur」 「鶴」 「寉」 など

朝倉文夫

朝倉文夫(あさくら ふみお、1883年(明治16)~1964年(昭和39))
大分県竹田出身。本名は(旧姓)渡辺。東京美術学校彫刻科卒

東京美術学校卒業後、1908年第二回文展にて二等賞を受賞。
以来、第8回展まで連続受賞を重ねる。
1921年より、東京美術学校教授。また24年より、帝国美術院会員に就任。
27年には、朝倉塾を主宰。
44年には、帝室技芸員を拝命、戦後48年に、文化勲章を受章。

精密な写実彫刻を基本に裸婦像、肖像などに秀作を残す。
技術の高さから東洋のロダンとも称され、そのほか猫をこよなく愛してモチーフに用いた。
尚、現代彫刻家の朝倉響子は次女。

印名は「文夫作」など

圓鍔勝三

圓鍔勝三(えんつば かつぞう、1906年(明治39)~2003年(平成15))
広島県出身。本名は勝二

1930年、第11回帝展にて木彫作品「星陽」で初入選。
以降、帝展及び、新文展に出品を重ねる。39年第3回新文展にて特選を受賞。
戦後は日展を中心に出品。47年第3回、50年第6回日展にて特選を受賞、
57年第13回展では川合玉堂賞を受賞、81年には日展顧問にも就任。

日展での発表のほか、68年の三越個展以来、名古屋、大阪、岡山などで度々個展を開催。
また、昭和会審査員・受賞者選定委員、孝太郎賞選考委員、日本彫刻会理事、
多摩美術大学名誉教授なども務めるなど、戦後の日本彫刻界を代表する作家としての活躍を見せる。
76年に勲三等瑞宝章を受章、88年には文化勲章を受章、89年広島県名誉県民、
93年川崎市名誉市民などにも選出された。
戦後の作品はブロンズ作品が中心。

彫印は「鍔」など

雨宮治郎

雨宮治郎(あめのみや じろう、1889年(明治22)~1970年(昭和45))
茨城県出身。東京美術学校彫刻科本科卒、同校研究科修了。

在学中の1918年、第12回文展にて初入選となる。以降、帝展、新文展、日展に出品。
29年第10回帝展及び、30年第11回帝展にて連続特選を受賞、31年第12回展で審査員に就任。

戦後、日展では50年に参事、58年評議員、64年理事と務め顧問に就任。
そのほか、51~56年には東京大学教授、66年より日本彫塑会会長に就任。
また、この間57年には、前年の日展出品作「健人」により日本芸術院賞を受賞し、
64年に日本芸術院会員に就任。

リアリズムを追求した写実的な作風で、特に男性像をモチーフとした作品を多く制作。
代表作に「無人の境を行く(29回帝展特選)」、「槍投(30回帝展特選)」、「黒田清隆像」、
「板谷波山先生像」など
現代彫刻家、雨宮敬子は長女。