田能村竹田

田能村竹田(たのむら ちくでん、1777年(安永6)~1835年(天保6))
豊後国(大分県)出身。本名は孝憲、号は竹田、九畳(九重)仙史、花竹幽窓主人、随縁居士、他

豊後国岡藩の藩医の家に生まれる。
藩校で勉学し、詩文の才を見出される。
1798年、22歳の頃に、家は継がずに、藩校の儒学者として藩政に参加。
藩命により、江戸に遊学したときに、文人大家であった谷文晁に画を学ぶ。
1806年に眼病の治療の為、京都に訪れた際には、村瀬栲亭に詩文を学んでいる。

藩との対立により、1813年35歳の頃に官を辞して、詩や書画を生業として生活を始める。
京都、大阪、江戸などで浦上玉堂、青木木米、頼山陽等一流文化人と交流、
中国画を独自に研究し、豊後南画の創始者として名高い。

書画家としてのみならず煎茶、和歌、音楽などにも秀でた文人画家の代表格である。

多数の書画を残しているが、その中でも「歳関三友双鶴図」「暗香疎影図」「松巒古寺図」が
それぞれ重要文化財に指定されている。

印名は「竹田」 「竹田邨民」 「竹田生」 「竹田居士」 「憲印」 「田憲」 「芬陀利華」
「一笑千山青」 「自娯」 「神仙風度」 「無用人憲」 「醉月」(「酔月」) 「一片秋月」
「小白石翁」 「霊鑑得簫」 「九峰無戒納子」 「奇山異水」 「僕本恨人」 「水色山光」 「孝憲」
「前身胡蝶」 「子斎」 「致中和」 など