立原杏所

立原杏所(たちはら きょうしょ、1785年(天明5)~1839年(天保10))
水戸藩(茨城県)出身。本名は任、字は遠

水戸藩士で水戸彰考館総裁であった立原翠軒の子として生まれる。
幼少の頃より父や画家の林十江のもとで画を修行、その後、父の隠居に伴い家督を継いで
7代藩主徳川治紀、8代斉脩、9代斉昭の3代に出仕。
文化9年に江戸に出府した際に当時の関東南画の巨匠であった谷文晁の門に入り、
さらに画の研鑽を深め中国古画の研究にも長じて、沈南頻様式の花鳥画、山水画を得意として
渡辺崋山、椿椿山らとともに文晁門下の四天王と称された。

帰郷後も斉脩、斉昭の命により多数の古画の模写を手掛け、画のほかにも篆刻にも優れた。

落款名は「杏所立原任」「翆軒題」など

印名は「立原任印」 「立原任記」 「立原任鍳」 「立原萬印信」 「生及人」 「杏所」
「杏所漫士」 「翆軒老人」 「比君堂」 「香案小史」 「立原氏字遠」など