堂本印象

(どうもと いんしょう、明治24年(1891)12月25日~昭和50年(1975)9月5日 83才没)
京都府生れ。本名:堂本三之助。

京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。
帝展初出展作「深草」が入選。
帝展第3回展では「調鞠図」で特選。
第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞。
第一級の日本画家として認められた。

京都市立絵画専門学校教授 帝室技芸員 日本芸術院会員 文化勲章受章。

私塾東丘社の主催者として、画壇の指導者としても活躍した。
堂本美術館(現:京都府立堂本印象美術館)を自らのデザインにより設立。

鑑定人・鑑定機関

ギャラリー鉄斎堂
京都市東山区新門前通東大路西入ル梅本町262
Tel:075-531-6164
http://www.tessaido.co.jp/gallery.html

富取風堂

富取風堂(とみとり ふうどう、1892年(明治25)~1983年(昭和58))
東京都出身。本名は富取次郎。

松本楓湖に師事。
同門であった今村紫紅、速水御舟、小茂田青樹らと共に赤曜会を結成する。
戦後は、主に院展に出品。1966年、第51回院展にて文部大臣賞を受賞。
師をよく継承し、大和絵風の花鳥図を得意とした。

印名は「楓堂」「風堂」「風」「富次郎印」「風堂畫印」など

日本美術院同人、評議員、千葉県文化功労者。

富田渓仙

(とみた けいせん 明治12年(1879)~昭和11年(1936) 57才没)
福岡県に生まれる。

12歳で狩野派を学ぶ。
明治29年、京都へ出て、都路華香の書生になり四条派を学ぶ。

仙崖、富岡鉄斎に師事。
文展出品作「鵜舟」などが横山大観に認められ院展へ参加。
大正4年第2回院展出品作「宇治川の巻」、昭和8年第20回院展出品作「御室の桜」などが代表作。

桜をこよなく愛した。車折神社には渓仙が寄贈した渓仙桜がある。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713
https://toobi-tocfa.or.jp/judge/

富岡鉄斎

(とみおか てっさい、天保7年(1836)1月25日~大正13年(1924)12月31日 89才没)
京都生まれ。幼名は不明。猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、
明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。
字を無倦、号を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。

耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学を学ぶ。
国学や勤王思想、漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一惠に学んだ。

「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。

彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。
80歳を過ぎてますます隆盛で、色彩感覚の溢れる傑作を描いた。
生涯を文人として貫き、その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、
梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛。
日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けている。

兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺の鉄斎美術館と、西宮市の辰馬考古資料館に多くの作品が収蔵されている。

鑑定人・鑑定機関

大阪美術倶楽部鑑定委員会
〒541-0042 大阪市中央区今橋2-4-5
TEL:06-6231-9626
http://daibi.jp/service/kantei/

寺島紫明

寺島紫明(てらしま しめい、1892年(明治25)~1975年(昭和50))
兵庫県明石市出身。本名は徳重。

伊東深水と並び名美人画家として称される。
幼少の頃から絵と詩歌、文学書に親しみ、21歳の時に鏑木清方に師事。
師のもつ情緒的な画風を受け継ぐ。
これに独自の絵画的感性を加えて、純度の高い美人画を生みだした。

昭和11年以降は関西に帰り、西宮に居を構えて芦屋など近隣の婦人たちを多く描いている。
文展・帝展所属。また奥村土牛らと九皐会に参加。
戦後は、日展審査員・参与を務める。
芸術院賞受賞。

印名は「紫明」 など

寺崎広業

寺崎広業(てらさき こうぎょう、1866年(慶応2)~1919年(大正8))
秋田県出身。慶応2年2月25日生まれ。本名は幼名が忠太郎、後に広業。字は徳郷

初め小室秀俊に狩野派を、四条派の画技を平福穂庵に学ぶ。
また、南画を菅原白龍に学び、日清戦争に従軍後、各諸派と独自の研究を取り入れる。

第1回帝展より審査員を務め、日本美術協会などで活躍、大正6年に帝室技芸員を拝命。
大正8年2月21日53歳で没する。
明治、大正を代表する画家。

印名は「騰龍」 「騰龍軒」 「騰龍軒主人」 「騰龍軒圖書」 「寺崎廣業」 「廣業印信」
「宗山」 「秋水共長天壹色」 など

土屋礼一

土屋礼一(つちや れいいち、1946年(昭和21)~(現在))
岐阜県養老町出身。本名は禮一。武蔵野美術大学卒

父、土屋輝雄(日本画家)の指導を幼少時より受ける。
大学卒業後、1967年より加藤東一に師事。
同年の第10回新日展にて初入選。以降、日展、日春展に出品する。
日展では、69年改組第1回展にて特選・白寿賞、76年第8回展にて特選。
85年、第17回展で会員賞を受賞、日春展でも71年・72年に連続日春賞受賞を筆頭に
日春賞を計3回、奨励賞を計2回受賞するなど、日展の代表的な画家として長年活躍を示す。
2007年には前年の日展出品作「軍鶏」により日本芸術院賞を受賞する。

そのほか、日本秀作美術展を始め、国内外の企画展・公募展にも積極的に出品を重ねる。
90年のMOA岡田茂吉賞展では日本画部門で優秀賞を受賞。

個展では、横浜・岐阜・京都・大阪の高島屋を中心に各地の百貨店・ギャラリーにて多数開催。
作品は、自然の持つ内面的な美を最大限表現することに務め
山・海・空などの風景を虚飾を極力抑えて描写し、その精神性の高い作品は高く評価されている。

印名は「禮」など

日展会員、評議員、理事。

土田麦僊

土田麦僊(つちだ ばくせん、明治20年(1887)2月9日~昭和11年(1936)6月10日 50才没)
佐渡島の農家の三男として生まれる。本名は金二。

竹内栖鳳に師事。
京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業。
小野竹喬とともに別科に入学する。

大正7年(1918)、同じ京都市立絵画専門学校出身の同士であった
村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花とともに国画創作協会結成。
大正10年(1921年)、麦僊は竹喬、晩花とともに渡欧。
約1年半に亘り、西洋絵画の研究と制作を行っている。

コレクターとしての一面もあり、 渡欧中にルノワール、セザンヌなどの西洋絵画を収集している。

月岡栄貴

月岡栄貴(つきおか えいき、1916年(大正5)~1997年(平成9))
東京都出身、東京美術学校日本画科卒。本名は栄吉。師、前田青邨

1942年に東京美術学校を卒業、卒業後は48年に院展に初入選。
以降同展を中心に出品、入選を重ねる。
56年に奨励賞を受賞(その後57/68/72/75/79/80にも同賞受賞)となり、
81年に日本美術院賞・大観賞を受賞し、日本美術院同人に推挙、85年には文部大臣賞、
87年には内閣総理大臣賞にそれぞれ選出されている。
その間、春の院展にも出品を続け春展賞など多数の受賞となる。

日本美術院賞(大観賞)受賞作の「やまたのおろち」に代表されるように
古典文学やおとぎ話を題材にした物を多く制作し、特に登場人物の描写に優れる。

印名は「栄貴」 など

蔦谷龍岬

蔦谷龍岬(つたや りゅうこく、1886年(明治19)~1933年(昭和8))
画家を志し、同じ東北出身の寺崎広業に画を学び文展~帝展にて活躍を示す。
1918年代12回文展で特選、さらに21年に第3回帝展でも特選を受賞。
その後帝展審査員なども歴任した。

画業半ばにしての早逝の為、現存作品も少なく画歴も比較的少ないが、
大正~昭和初期を代表する大和絵風画家として知られている。

印名は「蔦谷」 「龍岬」 「龍岬所作」 「竜岬」(「竜山甲」) 「龍岬之印」 「蔦谷龍彦」 「龍彦」 など