福沢一郎

(ふくざわ いちろう、1988年(明治31)~1994年(平成6))
群馬県出身。帝国大学文学部中退

大学在学中に、彫刻家の朝倉文夫の知遇を得て、彫刻を学ぶ。
1922年、第4回帝展に、彫刻作品「酔漢」が初入選。
その後、24年に渡欧し、フォービズム表現やシャガールの作品などから大きな影響を受け、
西洋画に転向する。
また研究を進めていくうちに、マックス・エルンストらシュルレアリスム派
(超現実前衛的絵画)に傾倒し、31年に帰国。
同年、第1回独立美術協会展に、滞欧作37点を出品。
日本で初めて、シュルレアリスムを紹介し、大きな反響を得た。
その後、39年まで独立展に参加。同年に美術文化協会を結成。57年まで同会で活躍
(一度49年に脱会、54年再入会)する。
46年には日本美術会の発起人、日本アバンギャルド美術家クラブに参加、
そのほか53年に、中南米を取材したのを機に、ニューヨーク・メキシコ、ヨーロッパなど
世界各地を巡遊し、様々なモチーフで作品を制作。
日本のシュルレアリスム派第一人者として、最期まで製作を続けた。
世界をめぐり、多くの人種、風俗、信仰などと触れ合ううちに、人間性を大きな題材として
黒人シリーズや旧約聖書、日本の古代神話などのシリーズに挑戦。
57年芸術選奨文部大臣賞、58年毎日美術賞、78年文化功労者表彰に続き91年に文化勲章を受章。

サイン、印 名は「Fukuz.」「一郎」など

鑑定人・鑑定機関

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

林武

(はやし たけし、明治29年(1896)12月10日~昭和50年(1975)6月23日 78才没)
東京都麹町区上二番町15番地に6人兄弟の末子として生まれる。父・甕臣(みかおみ)は国語学者。

1920年、日本美術学校に入学、同年中退。
1921年、第8回二科展で「婦人像」が初入選、樗牛賞受賞。
1922年、第9回ニ科展でニ科賞受賞。
1926年、協会会員となり佐伯祐三、里見勝蔵らと活動する。
1930年、二科会を脱退。独立美術協会創立に参画する。
1949年、第1回毎日美術賞受賞。
1951年、東京芸術大学の教授に就任。

日本芸術院賞受賞、朝日文化賞受賞、文化勲章受章、従三位叙勲。

原色を多用し絵具を盛り上げた手法で、女性や花、風景などを描き人気を得た。
サインは「Takeshi・H」もしくは「Take・H」と記すことが多い。

鑑定人・鑑定機関

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

福井良之助

福井良之助 (ふくいりょうのすけ、大正12年(1923)12月15日~昭和61年(1986)7月9日 62才没)
東京日本橋で生まれる。

中学時代に画家を志望し、島野重之の教えを受ける。
1944年、東京美術学校工芸科を卒業する。
しかし工芸には魅力を覚えず、在学中も油絵を描き続けていた。
1946年、第41回太平洋画家展に『みちのくの冬』が初入選。
1954年、第18回太平洋画家展で『窓』が佳作賞受賞。
1959年、孔版による初めての個展を開き、在日アメリカ人画商に認められ、
国際版画展等に出品し、その名を広く知られるようになる。
1965年 油絵中心の仕事に移行。

古典的な構図とセピア色の色調を持つ。
優美な画風で、主に静物画が多いが、風景、人物画も描いた。

浜口陽三

浜口 陽三(はまぐち ようぞう、明治42年(1909)4月5日~平成12年(2000)12月25日 91才没)
和歌山県に生まれた。浜口家は代々「儀兵衛」を名乗るヤマサ醤油の創業家であり、陽三は10代目浜口儀兵衛の三男にあたる。

1927年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
1930年、中退して渡仏、パリを中心に油彩画を制作してサロン・ドートンヌなどに出品。
パリで銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチントという技法を確立した。

1954年、現代日本美術展で受賞。
1955年、この頃からカラーメゾチントを制作。「西瓜」
1957年、第1回東京国際版画ビエンナーレで東京国立近代美術館賞を受賞「水差しとぶどうとレモン」「青いガラス」サンパウロ・ ビエンナーレで大賞を受賞。「魚と果物」「したびらめ」「西瓜二切」等
1981年、パリからサンフランシスコに移住。
1982年、北カリフォルニア版画大賞展でグランプリ受賞。「西瓜」
1984年、サラエボ冬季オリンピック大会でオリンピック記念ポスターに「さくらんぼと青い鉢」が採用。

浜口の高度な技術から生まれる繊細で静謐な作風は、他の追随を許さず高く評価されており、
世界の代表的銅版画作家の一人として広くその名を知られています。

藤田嗣治

(ふじた つぐはる、Leonard FoujitaまたはFujita、
明治19年(1886)11月27日~昭和43年(1968)1月29日 81才没)
東京都出身。

1910年、東京美術学校を卒業。第13回白馬会に出品、初入選。
1913年、渡仏しパリのモンパルナスに居を構える。
アメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。
エコール・ド・パリのジュール・パスキン、 パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらとも交友を結びだす。

1919年、サロン・ドートンヌに初出品で入賞し、直ちにその会員に推される。
日本の伝統美を踏まえた絵は、フランス人にはエキゾチックなものに映り、大きな名声を得る。
1921年、サロン・ドートンヌ審査委員となりエコール・ド・パリの有力作家となる。
1923年、サロン・ド・テュイルリー会員。
1925年、レジオン・ド・ヌール五等勲章を贈られる。

1955年、フランス国籍を取得。
1959年、カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタと改名。

レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章、レオポルド勲章、勲一等瑞宝章。

鑑定人・鑑定機関

東美鑑定評価機構
〒105-0004 東京都港区新橋6-19-15
Tel:03-3432-0713

日本洋画商協同組合鑑定登録委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル6階
TEL:03-3571-3402
http://www.yokyo.or.jp/jada/judge.html

広瀬功

広瀬功 (ひろせこう、大正10年(1921)~平成18年(2006)2月16日 84才没)
神奈川県生まれ。本名は「いさお」。師匠は安井曾太郎。

1946年 東京美術学校油絵科卒業
1946年、日展初入選
1950年、日展特選受賞
1963年、日展審査員
1982年、日展内閣総理大臣賞受賞
1982年、一水会常任理事
1985年、日本芸術院賞受賞
1986年、小山敬三賞受賞

日展参事、一水会常任委員

独特の色彩感覚と独自のマチエールで表情豊かな風景と静物画を描いた。

長谷川潔

長谷川 潔(はせがわ きよし、明治24年(1891)12月9日~昭和55年(1980)12月13日 89才没)
神奈川県横浜市に生まれる。

1912年、本郷洋画研究所にて黒田清輝や岡田三郎助に師事する。
バーナード・リーチからはエッチング技法の指導を受けている。
1916年、永瀬義郎らと「日本版画倶楽部」結成。

1918年にフランスへ渡り、様々な銅版画の技法を習熟。
特にメゾチント(マニエール・ノワールとも)と呼ばれる古い版画技法を復活させ、
独自の様式として確立させたことで有名。
1925年、初の版画の個展を開き、パリで高い評価を得る。
翌年、サロン・ドートンヌ版画部の会員となり、パリ画壇で確固たる地位を築いた。
渡仏して以来、数々の勲章・賞を受けた。一度も日本へ帰ることはなかった。

春陽会会員、日本版画協会創立会員、フランス芸術院コレスポンダン会員。
レジオン・ドヌール勲章受章、サロン・ナショナル・デ・ボザール版画賞受賞。
フランス文化勲章受章、現代日本美術展で特賞受賞、勲三等瑞宝章。

長谷川利行

長谷川 利行(はせがわ としゆき。「はせがわ りこう」とも。明治24年(1891)7月9日~昭和15年(1940)10月12日 49才没)京都府京都市山科区出身。

1911年、「みずゑ」主催の水彩夏期講習会に参加。
1923年、第1回新光洋画展で「田端変電所」が入選。
1925年、第3回大阪藝術展で入選。
1926年、第13回二科展で「田端変電所」が初入選。第7回帝展で「廃道」が入選。
1927年、第14回二科展に「麦酒室」などを出品し樗牛賞受賞。
1928年、1930年協会展に「地下鉄道」などを出品し奨励賞受賞。
1930年、二科展に「タンク街道」などを出品。
1937年、第1回一水会展に「NOANOA」などを出品。

絵は独学だったが非常に速筆で、1~2時間ほどでれっきとした油絵を仕上げてしまう。
自身のアトリエを持たず、「思い立ったら絵を描く」スタンスを生涯続けた。

野口謙蔵

野口謙蔵 (のぐちけんぞう、明治34年(1901)6月17日~昭和19年(1944)7月5日 43才没)
滋賀県蒲生郡桜川村綺田の酒造業を営む家に次男として生まれる。

東京美術学校洋画部に入学。黒田清輝や和田英作に師事しました。
1924年、東京美術学校洋画部卒業後は、郷里の桜川村に戻り蒲生野の風物を
ダイナミックに描き続けました。

途中洋画をやめ、日本画家の平福百穂(ひらふくひゃくすい)に師事したこともあった。
帝展で3度特賞に選ばれています。

1943年、第6回新文展の審査員に任命される。
1991年、野口謙蔵記念館開館。

野口画伯は優れた歌人でもあったといわれ、
村内極楽寺の住職米田雄郎が編んだ『凍雪』に数首のせられています。

中村彝

中村彝(なかむら つね、明治20年(1887)7月3日~大正13年(1924)12月24日 37才没)
現在の水戸市に生まれる。

1905年、彝自身が結核を病んでおり、療養のため千葉県北条湊に赴く。
この地で水彩スケッチを始める。
1906年、本郷菊坂、次いで白馬会研究所へ通い、中原悌二郎と出会う。
1907年、中原についで太平洋画会研究所に移り、中村不折、満谷国四郎らに師事する。
1909年、第3回文展に初入選。
1910年、第4回文展で『海辺の村』が3等賞。この作品は実業家今村繁三が購入する。
1911年、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになる。
相馬夫妻は、彫刻家・荻原守衛や中原悌二郎をはじめ多くの芸術家を支援していた。
1920年、院展の特別展示でルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受ける。
帝展に出品した『エロシェンコ氏の像』は大きな賞賛を持って迎えられ、
大正期の洋画を代表する記念碑的作品のひとつとなっている。