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篠崎小竹(書) 孝人詩十二首 巻物 広瀬旭荘奥書 儒学者
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¥88,000
税込
商品コード:
a4642
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作者
篠崎小竹
(しのざき しょうちく、天明元年(1781年)~ 嘉永4年(1851年))
江戸時代後期の日本の儒者・書家である。大坂生
菅茶山の友人である大坂の篠崎三島について古文辞学を学んでいるうちに、望まれてその養子となった。寛政の学制改革の際、小竹は養家を脱出して出府し、古賀精里の門に学んで朱子学者となり、ふたたび大坂に帰って三島塾をついだ。
文化8年(1811年)、廉塾を出て上洛した頼山陽が、最初に身を寄せたのが、父頼春水の友人・篠崎三島の養子である小竹のもとであった。小竹は山陽をよく理解し、茶山と山陽の和解を取り持つなど、その後一生を通じて彼を援護しつづけたばかりでなく、山陽の死後も、その遺児たちの面倒をよく見た。例えば、山陽の末子頼三樹三郎の教育をあずかった後藤松陰は、小竹の養子であった。小竹は三樹三郎を世話して江戸昌平黌へ入学させている。
小竹は性穏健にして社交好きでもあったため、関西学芸界の勢力家のような地位を得た。また山陽の死によって師を失った江木鰐水は、山陽と親交のあった小竹に師事するため、天保4年(1833年)2月、大坂に到り、天保6年(1835年)出府するまで、篠崎塾にいた。
小竹は、詩文のみならず、元、明、さらに唐の書法をも学んで、独自のすぐれた筆跡を残している。
奥書
広瀬旭荘(ひろせ ぎょくそう、文化4年(1807年) - 文久3年(1863年))は江戸時代後期の儒学者・漢詩人
兄に広瀬淡窓、広瀬久兵衛(この子孫の一人が知事の広瀬勝貞)らがいる。子に広瀬林外。
旭荘は記憶力が抜群に良く、師亀井昭陽に「活字典」といわれた。また交遊を好み、各地に多く旅をした。勤王の志士との交わりも知られ、蘭学者も多くその門を訪れている。
詩作にすぐれ、詩文の指導には規範を強いず、個性を尊重した。淡窓が平明な詩を作ったのに対し,旭荘は感情の起伏の激しい、才気横溢した詩を多く残している。旭荘の詩を評して、斉藤松堂は「構想は泉が湧き、潮が打ち上げる様、字句は、球が坂をころげ、馬が駆け降りる様。雲が踊り、風が木の葉を舞上げる様だ」と言い、清代末期の儒者、兪曲園は「東国詩人の冠」と評している。
寸法
縦31.5cm
長さ 本紙部分 約400cm
付属品
箱
店主より一言
二十四孝の中の十二です。孝人詩十二首の題は大舜 曽子 子路 閔子 老来子 楽正子春 ?榮 石建 江次翁 孟壽 蔡君仲 黄文強
広瀬旭荘の奥書き年は安政3年丙辰 1856年です。
軸先は紫檀です。
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江戸時代後期の日本の儒者・書家である。大坂生
菅茶山の友人である大坂の篠崎三島について古文辞学を学んでいるうちに、望まれてその養子となった。寛政の学制改革の際、小竹は養家を脱出して出府し、古賀精里の門に学んで朱子学者となり、ふたたび大坂に帰って三島塾をついだ。
文化8年(1811年)、廉塾を出て上洛した頼山陽が、最初に身を寄せたのが、父頼春水の友人・篠崎三島の養子である小竹のもとであった。小竹は山陽をよく理解し、茶山と山陽の和解を取り持つなど、その後一生を通じて彼を援護しつづけたばかりでなく、山陽の死後も、その遺児たちの面倒をよく見た。例えば、山陽の末子頼三樹三郎の教育をあずかった後藤松陰は、小竹の養子であった。小竹は三樹三郎を世話して江戸昌平黌へ入学させている。
小竹は性穏健にして社交好きでもあったため、関西学芸界の勢力家のような地位を得た。また山陽の死によって師を失った江木鰐水は、山陽と親交のあった小竹に師事するため、天保4年(1833年)2月、大坂に到り、天保6年(1835年)出府するまで、篠崎塾にいた。
小竹は、詩文のみならず、元、明、さらに唐の書法をも学んで、独自のすぐれた筆跡を残している。
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広瀬旭荘(ひろせ ぎょくそう、文化4年(1807年) - 文久3年(1863年))は江戸時代後期の儒学者・漢詩人
兄に広瀬淡窓、広瀬久兵衛(この子孫の一人が知事の広瀬勝貞)らがいる。子に広瀬林外。
旭荘は記憶力が抜群に良く、師亀井昭陽に「活字典」といわれた。また交遊を好み、各地に多く旅をした。勤王の志士との交わりも知られ、蘭学者も多くその門を訪れている。
詩作にすぐれ、詩文の指導には規範を強いず、個性を尊重した。淡窓が平明な詩を作ったのに対し,旭荘は感情の起伏の激しい、才気横溢した詩を多く残している。旭荘の詩を評して、斉藤松堂は「構想は泉が湧き、潮が打ち上げる様、字句は、球が坂をころげ、馬が駆け降りる様。雲が踊り、風が木の葉を舞上げる様だ」と言い、清代末期の儒者、兪曲園は「東国詩人の冠」と評している。
長さ 本紙部分 約400cm
広瀬旭荘の奥書き年は安政3年丙辰 1856年です。
軸先は紫檀です。