德川家康

(とくがわ いえやす、天文11年(1543年1月31日)~元和2年(1616年6月1日) 74才没)
三河国松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれる。日本の戦国武将・江戸幕府の初代征夷大将軍。

応仁の乱以降100年以上続いた戦乱に終止符を打ち、
織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を更に磐石のものとし、
264年間続いた江戸幕府を開府し、その礎を築いた。日光東照宮・久能山東照宮などで
「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)として祀られている。

戦国時代に三河国岡崎に岡崎城主松平広忠の子、幼名竹千代として生まれる。
当時の松平氏は弱小であり、広忠は仕えていた今川義元に息子を人質として差し出す事となった。
一時、家臣の裏切りにより織田氏の人質となるが、
最終的には当初の予定通り竹千代は今川氏に送られた。

竹千代は今川の元で人質として忍従の日々を過ごすが、
桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後、
松平は今川より離れて織田信長の盟友(事実上は臣下)として版図を広げていく事となる。

やがて、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。
豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従った。
秀吉の元で、家康は最大の領地を得る事となり、豊臣政権の五大老筆頭に列せられる。

秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、
江戸に幕府(江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開く。
家康の生誕地は、三河岡崎だが、生涯を通じて、静岡県(駿府)を本城あるいは
生活の拠点としている期間が長く、尾張の織田信長のもとで人質として過ごすなど、
三河岡崎にいたのは、幼少期及び桶狭間後10年と、意外にも短い。
そのため、三河土着の松平(徳川)家歴代当主や三河譜代の家臣とは違う、広い見識を持っていた。
そのこともあり、晩年の家臣団には、本多正信、天海、大久保長安、茶屋四郎次郎など、
外交・内政・謀略に長けた異能の人物が集まった。