平田郷陽

平田郷陽(ひらた ごうよう、2代、1903年(明治36)~1981年(昭和56))
東京都出身。生人形(活人形とも)師として菊人形、五月人形、市松人形などの人形制作で
高い評価を得た初代平田郷陽(恒次郎)の長男として東京浅草に生まれる。
少年期より父より人形制作を学ぶ。

1923年、関東大震災により父の郷里岡山に帰郷。
1924年、父が死去となり2代郷陽を襲名。
1927年、日米親善の為に米国より「青い目の人形」が寄贈する。
この答礼のために58体の市松人形を東京、京都を始め全国から公募、
200体以上の人形が集められたがこのとき、郷陽の作品が特出され、
これを期に一躍名が挙がるようになる。
それまで日本の芸術分野からは玩具の一部としての意識程度しかなかった人形に対して、
人形芸術というジャンルを模索確立するようになる。
1928年、他の人形作家らと共に「白澤会(後の日本人形社)」を結成。
展覧会などもしばしば開催して作品を発表。
1936年、帝展工芸部の一部に人形部門が開設、同年初入選となる。
以後、文展、日本人形社展などに出品。
38年には私塾「童人舎人形塾」を開設。人形作家を志す若手育成にも尽力を示す。

戦後は日展、日本伝統工芸展にも出品し、53年第9回日展にて北斗賞を受賞、
55年、人形界初の国指定重要無形文化財(人間国宝)に認定された。

戦前までは父初代郷陽の技術を継承した生人形や実在のモデルを使用した写実的衣装人形の作品の職人としての作品が多いが、戦後日展に出品するようになってからは、人形を芸術に推し進める中で、
前衛やややデフォルメした木目込み人形など造形的な作品が目立つようになる。
これは当時、欧米などの影響により写実よりも抽象的な表現を重視した傾向があったために
仕方なく作風を転向したためとされている。
総体的なモチーフとしては女性、童子などが多い。
代表作に「桜梅の少将」(東京国立近代美術館)、「文政童女」(個人蔵)「宴の花」(国際文通週間切手発行)など。
また、郷陽を長男とし、平田家は4兄弟で次男に平田陽光、弟に若くして戦死した平田玉陽、
共に卓越した人形師として活躍した。

印名は「郷陽」 「郷」 「平」 「ごうよう」 「ぐわうよう」 「がうやう」 「童人舎」 など