一休宗純

(いっきゅう そうじゅん、1394年(応永元)~1481年(文明3))
本名は千菊丸のち周建のち宗純(順)。
号は一休、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)など
第47世大徳寺住持。京都出身

後小松天皇の落胤とされ、幼少期に安国寺に預けられ
像外集鑑の下で修行を重ねる。
このときより、幼名千菊丸を捨てて、師より周建と名付けられる。
また早くから漢詩など文学に秀でていたとされる。
更に、謙翁宗為ついで大徳寺の高僧華叟宗曇について修行し、
謙翁から宗純の諱を、また華叟から一休の号を授けられる。
1474年には、後土御門天皇の命により、大徳寺大47世住持に就任。
応仁の乱で被害を受けた寺の再建に尽力したとされる。

晩年は京都田辺(現京田辺市)の酬恩庵(通称:一休寺)に隠居して、
詩、狂歌、書などを趣味として暮らした。

「墨蹟」が重文指定。

印名は「休」 「弌休」 など