正宗得三郎

正宗得三郎(まさむね とくさぶろう、1883年(明治16)~1962年(昭和37))

はじめ、日本画家を志して、1902年に上京、寺崎広業に学んだ。
その後、洋画に転向して、東京美術学校西洋画科に学ぶ。
1914~16年、及び、21~24年の二度にわたり、フランスに留学。
この間にアンリ・マティスの指導を受けている。
また在国中の1915年、第2回二科会展から会員として同会に出品、16年の第3回展、
24年の第11回展にそれぞれの滞欧作を出品している。

戦後は二科会の再興には加わらず、熊谷守一、黒田重太郎、田村孝之介ら9名で二紀会を結成。
以後、同会の中心的な画家として出品を重ねた。
また、晩年には富岡鉄斎に傾倒を深め鉄斎研究に没頭。

サインは「T.Masamune」 など

牧野邦夫

牧野邦夫(まきの くにお、1925年(大正14)~1986年(昭和61))
東京都出身。東京美術学校油画科卒

1948年美術学校を卒業後、画壇には属せずに、そのまま画を描くことだけに専念。
1959年に初個展を開催。
以来、数年に一度の個展のみの製作発表で、個展と共に居住地を点々とする清貧な生活を送る
(例外的に62年・65年安井賞候補新人展入選、71年第14回安井賞展入選がある)。

光の画家と称される世界的画家、レンブラントを愛し、彼の作品に影響を受けた画風を展開。
1966年にはレンブラントの母国オランダを中心に、欧州を外遊し、更なる研究を進める。

作品はレンブラント同様に、光と影のバランスを生涯かけて追求し、
全体的に背徳的なマチエールの中に、一光を入れて光、闇両極ともに
無くてはならない存在として表現、作品のモチーフとしては人物群像が主。

近年、回顧展が各地で企画され、没後再評価され始めた不世出の画家といわれる。

サインは「牧野」など

村山槐多

(むらやま かいた、明治29年(1896)9月15日~大正8年(1919)2月20日 22才没)
神奈川県横浜市で生まれる。

1914年、京都府立第一中学校を卒業し上京、日本美術院の研究生となる。
また、高村光太郎の工房にも出入りする。
1915年、第2回日本美術院展覧会で「カンナと少女」が院賞受賞。
1917年、第4回日本美術院展覧会で「乞食と女」が院賞受賞。日本美術院院友に推される。
以後、日本美術院試作展覧会で奨励賞受賞、美術院賞乙賞受賞を受賞。

若年で病没した画家としては比較的多くの作品を残している。
原色を多用した、けばけばしいとさえ言える筆致を特徴とする。

宮本三郎

(みやもと さぶろう、明治38年(1905)5月23日~昭和49年(1974)10月13日 69才没)
石川県能美郡末佐美村(現・小松市)生まれ。

1922年、上京し川端画学校洋画部で藤島武二に師事。
1927年、「白き壺の花」で二科展に初入選。
関西美術院で黒田重太郎の指導を受ける。
1938年 渡欧。
1940年、陸軍省嘱託として小磯良平等と共に中国へ従軍。
1942年、「山下、パーシバル両司令官会見図」で帝国美術院賞受賞。
1943年、「海軍落下傘部隊メナド奇襲」で朝日賞受賞。
1945年、(財)石川県美術文化協会が設立され、評議員・企画委員に就任。
1946年、金沢美術工芸専門学校講師に就任。

多摩美術名誉大学教授、東京教育大学非常勤講師、日本美術家連盟理事長。
日本芸術院会員、二紀会理事長、国立西洋美術館評議会評議員。

石川県に小松市立宮本三郎美術館
東京都世田谷には世田谷美術館分館宮本三郎記念美術館がある。

鑑定人・鑑定機関

日動画廊内各鑑定委員会
〒104-0061 東京都中央区銀座5-3-16
Tel:03-3571-2553
https://www.nichido-garo.co.jp/appraisal.html

南大路一

南大路一(みなみおうじ はじめ、1911年(明治44)~1994年(平成6))
東京都出身。

1929年18歳の頃、画技指導を受けていた長谷川昇の勧めにより、春陽会洋画研究所に入所。
同所に36年まで在籍し、木村荘八、中川一政、硲伊之助らに学ぶ。
春陽会展の出品を中心に制作を行う。
また47年、アバンギャルド芸術クラブの創立に参加するなど、独自の画家活動も行う。

60年代からは現代美術展優秀賞、春陽会展中川一政賞、国際形象展愛知県美術館賞と受賞。
84年、89年と二度の紺綬褒章を受章している。

サインは「oji」など

丸木俊

丸木俊(まるき とし、1912年(大正11)~2000年(平成12))
北海道出身。本名は赤松俊子(旧姓)。女子美術専門学校卒

女子美術専門学校にて洋画を学ぶ。
卒業後は、小学校教諭を務めながら作品を制作し、二科展に出品。
またモスクワ、ミクロネシアなどに長期外遊し、スケッチ製作など研究に励む。
1941年に丸木位里と結婚。この頃より、夫と共に行動をするようになり、日本画に転向。
41年より46年まで美術文化協会展に出品。
戦後より、47年に日本美術会、前衛美術会と双方の結成に参加する。
また、女流画家協会展に48年第2会展より出品を続ける。

展覧会出品のほか、絵本の著作を多数出版し、71年に国際童画ビエンナーレにて
ゴールデンアップル賞を受賞。
当初の洋画作品についてはあまり知られていないが、戦後より夫と共に原爆シリーズを
長年にわたり製作し、日本アンデバンタン展、日本秀作美術展、現代日本美術展などの
国内公募展のほか、西ヨーロッパ、中国、アフリカ、アメリカ(各州)での巡回展を開催。
夫妻で人類の平和を訴求、1953年に国際平和文化賞金賞、95年エイボン女性大賞、
96年には夫位里と共に朝日賞を受賞。

作品は原爆シリーズのほか沖縄問題、南京大虐殺、水俣病などをモチーフに制作。
絵本でも「ヒロシマのピカ」などが有名。
尚、結婚後もしばらくは旧姓の赤松俊子として作品を制作しており、1956年より丸木俊としている。

印名は「俊印」など

前田寛治

(まえだ かんじ、明治29年(1896)10月1日~昭和5年(1930)4月16日 33才没)
鳥取県東伯郡北条町(現北栄町)国坂の豪農の次男に生まれる。

1916年、東京美術学校西洋画科に入学。
在学中は藤島武二に師事。また、精神的には内村鑑三に傾倒した。
1921年、二科展に初入選。

翌年渡仏し、アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに学ぶ。
新古典主義、写実主義を研究し、アングル、クールベに魅かれる。
また、マネ、セザンヌにも刺激を受けた。
唯物史観の影響を受け、社会的な主題を扱った作品も描く。

1925年、帰国。第6回帝展では〈J・C嬢〉で特選となる。
1926年、里見勝蔵らと一九三〇年協会を結成する。
1928年、渡仏期の成果を基に、前田写実研究所を開設。後進の指導にあたる。
一方で造型理論の研究をすすめ、古典的な構図とフォーヴィスム的な筆致を持つ作品を制作する。
1929年、第10回帝展で、帝国美術院賞を受賞。

人物写実画の名手として知られ、33歳という若さで早逝し10年に満たない短い活動期間であったが、
彼の古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が「前寛ばり」という流行語を生むなど
当時の芸術家に多大な影響を与えた。