望月玉渓

望月玉渓(もちづき ぎょくけい、1874年(明治7)~1938年(昭和13))
望月玉泉の子

父に画技を学び、望月派5代目として家督を継ぐ。
1896年、第一回絵画共進会展にて2等褒章を受章。
京都美術協会会員、日本美術協会会員、日本画会会員として活躍した。
子に望月玉成、兄弟弟子に川合玉堂、跡見玉枝など。

印名は「玉渓画印」 「釣玉蝉」 「玉蝉」 「玉蝉画印」 「重信」 「源重信印」 など

黙庵霊淵

黙庵霊淵(もくあん れいえん、~1345年(康永4))

鎌倉から南北朝時代の画人・僧。

1326年以前に鎌倉淨智寺で見山崇喜に参じ霊淵と改名。
29年に入元して、月江正印、平石如砥など高僧に歴参する。
了庵清欲のもとで蔵主となり、帰朝目前の1345年に没したとされる。
その画風は牧渓様で牧渓再来かと称される。

代表作に「布袋図」、「白衣観音図」など

印名は「楚石」 など

村山徑

村山徑(むらやま けい、1917年(大正6)~1985年(昭和60))
新潟県出身。川端画学校卒

幼少のころより画に興味を持ち、画家を志すようになる。
同郷の画家、尾竹国観に入門。
高校卒業後は、上京して川端画学校に学ぶ。
在学中より、各種展覧会に入賞するなど画力を示し、卒業後は文展に出品。
1933年には特選を受賞する。
戦時中は、従軍画家として戦地に赴いたが、戦後からは児玉希望に師事。
日展に出品を重ね、33、34年に連続特選、39年より度々審査員を務める。
53年には、内閣総理大臣賞を受賞するなど活躍する。
59年に、前年の日展出品作が日本芸術院賞(恩賜賞)に選出されている。

高原や山岳など、風景を主にモチーフに制作されており、緻密な筆致と柔らかな色彩により
自然の生命力や力強さを表現した作品を多く残す。

印名は「徑」(「径」) 「邨山印」(「村山印」) 「邨山徑印」(「村山径印」) など

村松乙彦

村松乙彦(むらまつ おとひこ、1912年(大正元年)~1963年(昭和58))
愛知県出身。日本美術学校卒。

初め、太平洋絵画研究所で油絵の技法を修める。
次いで、日本美術学校日本画科に入学、卒業後は、児玉希望に師事した。

昭和16年、第4回文展において初入選、昭和24・26年には日展にて特選を受賞。
その後は、ヨーロッパ外遊などをはさみ、日展を中心に活躍し、審査員、評議員に推挙される。

印名は「乙彦」「乙彦信印」「乙」「彦」「緑松」など

村上華岳

村上華岳(むらかみ かがく、明治21年(1888)7月3日~昭和14年(1939)11月11日 51才没)
大阪生まれ。本名は武田震一。神戸で育つ。

京都市立美術工芸学校に学び、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。

大正7年(1918)、京都市立絵画専門学校の同窓であった
華岳、土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花の
若手日本画家5人で国画創作協会を設立。

個性的な山水図や牡丹図、水墨にプラチナ泥(でい)を併用した仏画などを残している。
昭和期に入ってからの華岳の作品は、小品が多く、色彩もモノクロームに近いものが多い。

華岳の描く仏や菩薩は大正9年(1920年)の『裸婦図』の系譜を引いており、
世俗性と精神性、妖艶さと聖性、官能美と悟りの境地という相反する要素が不思議に調和している。
華岳の仏画は20世紀の宗教絵画の最高峰と言って過言ではない。

武者小路実篤

武者小路実篤(むしゃのこじ さねあつ、1885年(明治18)~1976年(昭和51))
東京都出身。東京帝国大学卒業

公卿の家系である、武者小路家の子爵武者小路実世の第8子として生まれる。
学習院高等科を経て、1906年に東京帝国大学に入学。
在学中に、同級の志賀直哉、木下利玄らと「一四日会」を組織する。
07年に同校を中退、10年には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌「白樺」を創刊。
以後60余年にわたり、生涯文筆活動を続ける。
人生の賛美、人間愛を語り続け、無差別社会や理想的な調和社会の創造を目指し、
1918年、宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を建設
(1939年は第二の「新しき村」を埼玉県入間郡毛呂山町に建設)。

戦後は、1946年に貴族院議員に就任、1951年に文化勲章を受章。
文筆活動のほか、1925年頃より絵画分野にも表現を求め、親しみある独特の画と
自らの詩を添えた作品を多く制作。

代表作に代表著書に「お目出たき人」「幸福者」「人間万歳」「真理先生」「友情」「美術論集」他

公的鑑定機関は「無車会」

向井久万

向井久万 (むかいくまん、明治35年(1902)~昭和62年(1987) 78才没)
大阪生まれ。
西山翠嶂に師事し日本画を学ぶ。

山本丘人、上村松篁、福田豊四郎、吉岡堅二らと創造美術を創立。
戦時中『男子生まる』が帝展に入選。『白馬』が当時の政府に買い上げとなる。

三輪良平

 

三輪良平 (みわりょうへい、昭和4年(1929)~)
京都生まれ。京都市在住。

京都市立美術専門学校日本画科卒業。
山口華楊に師事、晨鳥社所属。
日展入選を重ね、 昭和36年、第四回新日展で特選・白寿賞受賞。
翌年、第五回展で菊華賞受賞。

日展審査員、日展評議員。

 

三輪晁勢

 

三輪晁勢(みわ ちょせい、1901年(明治34)~1983年(昭和58))
新潟県出身。本名は信郎

都美術工芸学校・京都絵画専門学校卒後、堂本印象に師事。
第8回帝展で、初入賞。第12・15回帝展において、特選を受賞する。

戦後は、日展に出品し日本芸術院賞などを受賞。
また、師印象没後は、印象の私塾東丘社を引き継ぎ、後進の育成に貢献。

画風は、鮮やかな色彩を用いた風景画や、装飾的な花鳥図などを得意とし独自の世界を展開した。

代表作に、「朱柱」「舟造る砂丘」「春丘」「東山」など。

印名は「晁勢」 「守墨」 「倓想」 など

三谷十糸子

三谷十糸子(みたに としこ、1904年(明治37)~1992年(平成4))
兵庫県出身。本名は敏子。女子美術専門学科日本画科卒

幼少期より画を好み、地元の女学校の校長の勧めもあり画家を志す。
女子美術専門学校を卒業後は、西山翠嶂の青甲社に入り、画技を習得。
1928年、第9回帝展にて初入選となり、32年、33年には連続して特選を受賞。
帝展~新文展と着実に出品を重ね、戦後は日展に出品。
64年に日展文部大臣賞、69年には(前年の日展出品作「高原の朝」で)日本芸術院賞を受賞、
77年に勲三等瑞宝章を受賞している。

花や人物、風景を制作、特に軽井沢の高原や自然の風景をモチーフに
そこに女性を配置したシリーズが有名で
穏やかで優しい筆致と色彩で清涼感や清潔さを表現した。

印名は「糸」 「十糸子」 「Ⅱ」 など