川瀬表完

川瀬表完(かわせ ひょうかん)
京都市出身

江戸末期の京塗師木村表斎を祖とする「表派」の技法を受け継ぐ京塗師で
初代川瀬千太郎、二代繁太郎、三代厚、(現4代当主は三代表完川瀬正)に渡り、
各種茶道具、調度品などの漆製品を主に手掛け、二代繁太郎より「表完」を号する。

川瀬 厚(二代東山表完)(1933~2007年) 父初代表完(繁太郎)に師事。
日展、日本新工芸展、京都工芸美術展などに出品を重ねた。
現在は全国各地の百貨店を中心に個展にて発表。
京漆器伝統工芸士会会長、京都漆芸家協会会員、京都美術作家協会会員。
溜塗、木地溜塗、一閑塗、布摺塗などの伝統技法を守りながらも現代的な造形や文様を取り入れた茶道具造りを展開。

印名は「表完」など

梶川文龍斎

梶川文龍斎(かじかわ ぶんりゅうさい、(宝暦)~(文化頃))

宝暦年間(1751~1753)頃~文化年間(1804~1817)頃に活躍した蒔絵師で
「官工梶川文龍斎」等の花押が捺されている作品が多く残ることから、
徳川幕府のお抱え蒔絵師として名を残す。
また、現存作品の書銘、花押の違いから少なくとも3代は続いたと推察されている。
印籠、硯箱、盃などを残す。

刻印は「梶川作」「梶川文龍斎」など

音丸耕堂

音丸耕堂(おとまる こうどう、1898年(明治31)~1997年(平成9))
香川県出身。本名は芳雄。

小学校を卒業すると地元讃岐漆彫りの工人石井磐堂に学ぶ。
幕末彫漆家の玉楮象谷の作品に魅せられ以降は独学にて漆芸の技術を修得していく。
1937年に上京し42年には第5回文展にて特選、戦後は49年に日展特選受賞となる。
1955年、漆芸に革新を起こしたとして人間国宝に認定。
以降は日本工芸会に所属し日本伝統工芸展などで活躍、同会常任理事、参与なども務めた。

当初は唐物(中国)の溜塗りの技法を用いた作品を制作していたが、
上京後は明るい色彩を用いた作品となり、さらに52年頃から平行に何本も線を彫り、
縞模様を作成、その模様によって斬新なデザインを創造するといった独自の作風を確立した。

小川破笠

小川破笠(おがわ はりつ、1663年(寛文3)~1747年(延享4))
伊勢の人。本名は観。号は笠翁、卯観子、宗宇、夢中、他

破笠細工の創始者。
貝、陶器、牙角、等に蒔絵と象嵌を用いて繊細な作風を主とした。

また、画や俳諧もよくし、それぞれ英一蝶(画)・松尾芭蕉(俳諧)に学んだ。
作品は、群馬県立近代美術館、熊本県立美術館、石川県七尾美術館などに所蔵されている。

印名は「観」「宗宇」「卯観子」など

太田儔

太田儔(おおた ひろし、1931年(昭和6)~(現在))
岡山県出身。岡山大学教育学部特設美術科卒。

岡山大学教育学部で磯井如眞の指導を受けその後内弟子となって約11年間師事。
1965年日本伝統工芸展初入選、以後多数入選、75年81年に文部大臣賞、
86年、90年に保持者賞を受賞。
91年 東京・大阪・岡山高島屋で個展開催、92年第5回MOA岡田茂吉賞展大賞を受賞。
香川のキンマ塗や存星、藍胎の技法を用いた作品を展開。
94年 重要無形文化財「蒟醤」の保持者に認定。

印名は「儔」「太田儔」「居山荘主」など

植松包美

植松包美(うえまつ ほうび、1872年(明治5)~1933(昭和8))
東京出身。本名は弥太郎。号は抱美、包美、不老斎。

東京の蒔絵師植松抱民の長男として生まれる。
蒔絵技法を父抱民に図案を岸光景に師事したほか尾形光琳、原半遊斎の作品に私淑。
漆工競技会や内国勧業博覧会、帝国美術院展覧会などに出品を重ねる。
明治後期~昭和初期にかけて漆芸部門では赤塚自得と共に双璧と称される。

琳派的な表現を用いた作品を多く残し、茶道具、筆記具、印籠などに秀作を残す。
初期の頃は「抱美」の号を使用していたが後に「包美」に改号、
また晩年の作品には「不老斎」及び「不老斎主人」としている。

印名「包美」など

伊藤裕司

伊藤裕司(いとう ゆうじ、1930年(昭和5)~(現在))
京都市出身。号は洛堂。京都市立美術工芸学校漆芸科卒

1953年に京都市立美術工芸学校漆芸科を卒業。
その後、上京して山崎覚太郎に色漆芸の技法を学ぶ。
同年第9回日展にて初入選、以来日展、日本現代工芸美術展などに出品を重ね
66年第9回日本現代工芸美術展特別賞、66年第9回及び68年第11回新日展で特選、
83年第15回改組日展会員賞などを受賞。
また70年より79年まで漆芸作家集団「フォルメ」にも創立同人として参加。

京都、大阪を中心に個展多数、90年京都府文化賞功労賞、95年京都市芸術功労賞、
2000年文化庁長官表彰(漆芸技術)、2001年林野庁長官賞など受賞。

印名は「裕司」など

池田泰真

池田泰真(いけだ たいしん、1825年(文政8)~1903年(明治36))
江戸赤坂出身。本名は七五郎(幼名)のち久三郎。号は泉哉。

三河国西尾藩士池田新五郎の子として生まれ、幼少のころより絵を描く事を好む。
11歳の頃に柴田是真に内弟子として入門、以来20数年間にわたり是真の下で学ぶ。
補佐として是真を助け墨形塗、青海波塗、青銅塗、砂張塗など漆芸技法の改良にも尽力を示す。

1859年、浅草榊町に独立。
明治以降は73年のウイーン万国博覧会出品以来国内外の展覧会に出品、受賞を重ね
審査員を歴任。また、宮内庁の御用品の制作にも多く携わり96年に帝室技芸員を拝命。

印名は、「泉哉」「泰真」「古満」など

浅野惣三郎

浅野惣三郎(あさの そうざぶろう、1856年(安政3)~1932年(昭和7))
蒔絵師。加賀出身。号は可秀

鶴来又右衛門・高田茂三郎より加賀蒔絵の技法を師事した。
明治23年、石川県工業学校美術工芸部描金科助教諭就任し、後進の指導を行なっていたが、
退職後は大阪に移住して、各種展覧会にて作品を発表。

赤塚自得

赤塚自得(あかつか じとく、1871年(明治4)~1936(昭和11))
東京都出身。号は7代平左衛門。

代々漆蒔絵を業とする6代赤松平左衛門の家に生まれる。
家業を継承する為にはじめは狩野久信や寺崎広業に日本画を学び、
また白馬会において洋画の画法を習得。
父の工房の補佐にて蒔絵技術を熟練させて後に7代平左衛門を襲名。
1925年、同じ漆芸家の六角紫水、植松包美や陶芸家の板谷波山、沼田一雅、
鋳金家の香取秀真ら当時作品発表の場を求めていた工芸家有志16名らと共に工芸済々会を結成し、
日本橋高島屋などで展覧会として開催。
1927年、第8回帝展より第四部として工芸部門が新設されると済々会と平行するように出品を重ね
後に帝国美術院会員、帝展審査員にも就任した。

伝統の古式蒔絵と日本画、洋画の技法を交えて優雅さと斬新さを兼ね揃えた作品で
近代蒔絵文化に多大な功績を残し現在でも国内外を問わず賞賛されている。
門下には5代 金城一国斎など。

印名は「自得」など