沢庵宗彭

沢庵宗彭(たくあん そうほう、1573年(天正元)~1645年(正保2))
但馬国(兵庫県)。本名は綱紀(俗名)、春翁、秀喜、宗彭

俗姓は秋庭で、但馬国出石の秋庭能登守綱典の次男として生まれた。
父が仕えていた出石城主山名祐豊が、羽柴秀吉により攻められて落城。
父が浪人となったことから、地元の唱念寺にて出家。
その後、宗鏡寺に移り、希先西堂師に師事するが、希先が没すると変わりに
同寺住持として招かれた大徳寺の董甫紹仲に師事。
1594年、董甫が大徳寺138世住持に出世すると連れて上京。
董甫の師でもある春屋宗園にも師事。このときに法名を宗彭と改名。
その後、堺の南宗寺に入り一凍紹滴の下で修行、沢庵の法号を得る。

1607年に大徳寺首座となるがすぐに南宋寺に戻り、また09年に154世住持にも出世したが、
この時も3日で辞して、堺南宋寺に戻るなど名利を求めない人であったとされる。
また、この頃、幕府は大徳寺と妙心寺に対して寺院法度を厳しくする政令を発足し
これまで歴代の住持に天皇から勅許されていた紫衣を剥奪、
これは寺院と朝廷の関係弱化を狙った政策であったが、沢庵をはじめ玉室、江月らが幕府に抗議し
沢庵は出羽国山上に流罪となる。
その後、将軍徳川秀忠が没したことにより、大赦令がだされたのち一時江戸に上がり
神田広徳寺に身を預けたのち大徳寺に戻る。
将軍家光が上洛した際には謁見し、この頃より家光がよく帰依するようになり、
その後、家光の懇願を受けて、江戸に移りしばしば江戸城内にて説禅を行なう。
家光が品川に萬松山東海寺を創建した際にその開山として招かれている。

印名は「宗彭」 「明暗雙々」 「泉鼓」 「澤」 「澤庵」 など